どのような状況であれ、何かの結果を待つのは苦手だ。わたし一人に関する事でもそうなのだから、まして多くの人々を巻き込んだ映画の賞のなりゆきにはなおさらである。
南イタリア、サレルノ国際映画祭の最終日、各賞発表の日。昼下がり、映像詩『オシラ鏡』の衣装を着付けてもらうため、三人の若者たちを駅前のホテルに送り出した。映画の撮影地、遠野から遠野市教育文化財団の石田久男さん、そして当地で美容院を営む多田さん夫妻が滞在しており、みな和装で授賞式に臨もうと張り切っている。主演の高山太一くんがわたしの一張羅を着るので、こちらはふつうの格好でいいことになり、ややほっとして、ひとり海辺の食堂に座った。
ベズビオ山のラベルの赤ワインは軽やかながらもタンニンの引き締まった味で、地元産だという。イタリアの小麦がわたしには重すぎるのか、ピザやパスタに食傷気味だったので、ブルーチーズとルッコラ、酸っぱいケイパーを重ねたハンバーガーを頬張る。もう三分の二が過ぎたイタリアの旅のあれこれを思い出しながら、そして惨憺たる有様だった昨晩の上映会を呪いながら、ほとんど一本空けてしまいそうになる。上映前、真っ赤な眼をして完全に(マリファナで)キマってしまっている上映技師と雑談しながら、嫌な予感はしていたのだが、せっかく4Kで作った映像は無残にも圧縮されており、技師はエンド・クレジットの途中で次の作品に飛ばそうとしたため、座席から飛び上がっておこの男の持ち場に怒鳴りこんだ。いま思い出しても、腹が立つ──とはいえ、まあいいか、と思い直して、残りのワインは着替えがてらアパートに持って帰ることにした。イタリアでは、割とだいたいのことが大したことに思えなくなってくるらしい。街区のあちこちに古代の遺跡がごろごろしているような場所では、ほとんどのことが矮小な悩みに過ぎない。土曜日のきょう、旧市街はどこまでもつづく人並みで賑やかである。
映画はいいものだ、とアパートへの長い坂道を上りながら、ほろ酔いの頭でぼんやり考える。それは「わたし」の作品にはなりえないから、と──もちろん、写真だって一人でできるわけではなく、多くの人々の親切や犠牲によって初めてうまれるのだけれども、やはり何かが違う。それは手に手に転がってゆく不定形のエネルギー体か、あるいは独立した疑似生命である。もしこれからも映画を作りつづけるなら、仕事の仕方はおろか、話し方、身体のありかたも変わらなければならないだろう。
もう15年も前、まだ写真学校の学生だったころ親しい友人二人と実験映画『Aria』を作った。クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』(1962)に心酔していたわたしたちは、同じように写真をモンタージュして映像を編集することにした。作業は遅々として進まず(というのも肝心の写真を任された私が、いつまでも撮る糸口を見つけられずほとんど何もしていなかったからだ)、途方もないアイデアばかりで盛り上がっては、西荻窪の「戎」で酔いつぶれる日々を懐かしく思い出す。それから監督だった友人は身体表現の道に転じ、いっとき日本を去った。制作の友人──ジガ・ヴェルトフやヴェルナー・ヘルツォークを愛する原理主義的シネフィルだった──は映像に関わる著作権や配給の仕事をつづけている。あのように無為で貧乏で濃密な時間を他者と過ごすことは、もうない、そんな風に思っていたのではなかったか。
授賞式のスピーチは、あまりうまくできなかった。東北の被差別の歴史やアベ政治の批判を急に入れたので、通訳のリンダ(※)があたふたとしているのが横目で見えて可笑しかった。映像詩『オシラ鏡』は、短編部門最高賞を受賞した。この賞はこの短い映画に少しでも関わったすべての人々への、祝福である。
明日はローマへ発つ。次の家はコロッセオが見える路地にあるアパートで、また自炊が楽しみである。
イタリアの旅の道連れたち、18才の太一くんと14才のマイラ、レオナたちの生は、つづく。わたしの生、撮影の中川周さんや音響の山﨑巌さんや絵コンテを描いた戸島璃葉の生もまたつづいていくが、そのような人々の一回性の出会いが、ひとつの映画の時空間に凍結されている。そして全ての映画は、フィクティヴ/架空のものであると同時に、そのような数多くの、現実にある生の記録だと考えるのも、悪くないと思う。
※リンダ・デルーカはイタリア字幕を作ってくれた翻訳家で、ニューヨーク在住のピアニスト加藤あやさんの紹介で出会った。加藤さんは、ヴァイオリニストの戸島さや野と一緒に高橋悠治さん作曲『贍部洲の太陽の下で』を録音、映画ではこの曲を使用した。