救われたのは幼いものではなく、

越川道夫

この3月22日に詩人である江代充さんが前立腺癌で亡くなり、ほんとうに何もできなくなってしまった。読まなければならない本があり、書かなければならない文があり、そのどれもができず、ひたすら江代さんが遺した文だけを、繰り返し、繰り返し読み、それでも食べるための仕事はなんとかこなしてはいたが、自分でもどうしたいのか分からぬまま怒りと悲しみの中で瞬く間に二ヶ月は過ぎていった。
 
思えばこの数年のコロナ禍下で、私はどれだけの人を失っただろうか。直接的にコロナの影響で失われた人はわずかだが、パンデミックと呼ばれる状況がはじまった当初から、ひとりまたひとりと失われていく。それは年長の人たちばかりではなく、年の近い人ともいれば、私よりもはるかに若い人もいた。指を折って数えていても、多い時にはひと月に数人ということになると折る指の方が追いつかず、大学の同期であった青山真治が亡くなった時に、ついに数えるのを放棄してしまった。もう半世紀も越えて生きているので、そのような年齢になったと言われれば、そうなのだろうけれど、いくらなんでもこれは理不尽ではないか。しかも、この感染症は人と人とを遠ざけたため、最後の別れさえも満足にすることができず、残された者たちで集まり悲しみを分かち合うこともできず、悲嘆はいつも行き場所を失い、宙吊りとなった。人によってさまざまだろうが、私の場合に限って言えば。この数年の経験で学んだことは、「死別とはその人との間に一度きりしかない」というあまりにも当たり前のことを痛感することであった。この間、私たちは死別に向き合うこともできず、その意味を嫌というほど学ぶことになったのではないか。もし、今なおその当たり前すぎる意味を蔑ろにするのであれば、あのコロナ禍下で何も学ばなかったのだとしか私には思えない。死とは、あまりにも具体的な事柄であって、またいつか、はない。私は自分が悲しみ過ぎたのではないかと思っている。人が失われることを悲しみ過ぎたのではないか。もっと他者に対して無関心であっても良いのかもしれない。悲しむべき時にちゃんと悲しまなければならないと思い、逆らうことなく悲しむことをしたのだが、その悲しみは失われた人の不在から汲み尽くせないほど溢れ続け、今もなお止まる気配はみえない。
 
今年は花の移り変わりが早いように思える。木香薔薇も、栴檀も、桐の花も咲き始めたと思うとすぐに盛りを迎え、あっという間に散ってしまった。思い過ごしだろうか。その日も、そろそろ捩花が咲いている頃ではないかと草むらを歩き回り、結局昼寝をしていた猫を驚かせただけで見つからなかった。道まで戻ってちょうど来たバスに乗り込むと、草むらから連れてきてしまったのか、手の甲にテントウムシの幼虫が這っている。せめて植物のある場所にその幼虫を放したいと思うが、かといってそのためにバスを降りるわけにもいかず、それを潰してしまわないように右手から左手へ、左の人差し指から右の親指へうつしながら、私の降りる終点まで連れていくことにする。幼虫は、時折立ち止まって、私の皮膚を吸うような仕草を見せるが、またふたつの手の上を歩き回っている。バスから降りて、随分遠くまで連れてきてしまったが、せめてもと駅のすぐ前にある車回しの低い植え込みの葉の上に、その幼いものを放した。そういえば幼虫が手の甲に現れたとき、私は心の中で怒りを反芻し、決して願ってはならないことを願っていたのだ。救われたのは幼いものではなく、私であったのかもしれない。