「ご出身は?」
と聞かれるたびに、口ごもってしまう。自分がそこで出生した家屋や病院の所在地を聞いているわけではないだろう。精神的に帰属していると感じる土地、自分の個人史のみならず家族の歴史も書き込まれた故郷、つまり「あなたのルーツはどこなのか」という質問の含意に、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
いまそこに住んでいなくても、お盆やお正月に里帰りをする実家がそこにあり、一年に何回か、両親や祖父母、兄弟姉妹や親戚があつまって宴会や墓参りや初詣をしたりする、そんな土地はあなたにとってどこなのか? となり近所には、いつまでも自分を子ども扱いするおせっかいなおばちゃんがいて、幼年時代の記憶をわかちあう気の置けない同級生がいて、成人男性だったら秋祭の季節には万障繰り合わせて帰省し神輿を担いだりする、そんなコミュニティがきっとあなたにもあるだろう、と。
自分には、そういうものすべてが欠如している、という感覚をもって生きてきた。それはいまも変わらない。原因は、はっきりしている。ぼくら一家の長である父に、そういうものすべてが欠如していたからだ。
父は台湾生まれの「湾生」、台中と台北で少年時代を過ごした植民者の子だった。日本が戦争に敗れ、引き揚げた後、糸が切れた凧のようにふらふらと移動の多い人生の道を歩きはじめ、高度成長期のこの国でサラリーマンになり、母と結婚をし、姉とぼく、ふたりの子どもが生まれてからもいわゆる「転勤族」として関東、中部、北陸、関西と渡り歩いた。
お盆やお正月などの年中行事にはきわめて淡白で、「やりたかったらやればいい」というスタンス。伝統的な土地の祭りのようなものにも、まるで関心がない。というか、日本においてそういう類の行事に参加したことは一度もなかったのではないだろうか。
もうこの世の人ではない父から、台湾の話を聞いたことは一度もなかった。戦後に再訪したこともないと思う。父のふるさととしての台湾については、母から教えられた断片的なことがらしか知らない。
ぼくは子どものころ、父がテレビの前にすわり、中国での日本人残留孤児の報道番組をみながらこっそり涙しているのを、何度も目撃したことがある。涙の理由がはっきりわからないから、少年であるぼくは同情よりも、見てはいけないものを見てしまったような気まずさしか感じなかった。
けれど人前で決して感情を表したりしなかった、典型的な「昭和の頑固者」である父が手で口を押さえて嗚咽をこらえているのだから、そこに何かただならぬ事情があることだけはうすうす感じていた。そんなふうにして、「あなたのご出身は?」という問いにかかわる「すべてが欠如している」という感覚を、ぼくは父の無言から受け継いだのだった。
***
ここのところ、藤本和子さんの『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』を読み続けている。1986年に刊行された本が、2020年ちくま文庫で復刊された。アメリカに暮らし、英語文学の翻訳を仕事にする藤本さんが、ウィスコンシン州の懲治局につとめる臨床心理士ジュリエット・マーティンと彼女の女友だちのグループ、そして担当する刑務所の服役者から聞いた話を書きとめた内容だ。
語り手の共通項は黒人であること、女性であることで、著者である藤本さんはアメリカで黒人として生きるとはどういうことか、女性として生きるとはどういうことかを尋ねている。黒人たちがアフリカから連行され奴隷にされた時代から、1960年代・70年代の公民権運動の時代まで、人種差別とそれへの抵抗の歴史を踏まえつつ、「アメリカ社会は良くなったか」という問いに、彼女らは答える。「たたかいなんて、まだ始まってもいない」。
このことばのもつ意味は、それが語られた時点からさらに切実さを増しているように聞こえる。昨年、アメリカではアフリカ系アメリカ人の男性ジョージ・フロイドが白人の警官の不当な暴行によって命を落とし、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声が世界中に轟いた。名著と呼ぶに値する、時間の腐食作用に耐える本はこんなふうにして未来に訴える力をもつのか、と驚いた。
アメリカの黒人たちが生きのびること、集団の歴史を知ること、みずからを語ることばを探すこと。それらについて証言する女性らの語りの随所にエンピツでアンダーラインを引き、目印の付箋の数はどんどん増えてゆく。いまも古びることのないこの本の魅力を知るには、実際にこの本を読んでもらうしかない。さあ、本屋へ行こう。
ひとつだけ感想めいたことを記すとしたら、ぼくはこの本で黒人女性たちのことばを読みながら、彼女らの語りの背後に、じっと耳をすませる著者の倫理的な態度を一貫して感じ続けた、ということだ。たとえばデブラ・ジャクソンというテレビ局のオーナーの聞き書きの導入部分で、藤本さんはこんなことを書いている。
「彼女が独身であるか、結婚しているかたずねなかったことに、わたしはいま気づく。ほかの女たちにも、わざわざたずねなかったが、彼女らが話した。デブラはそのことについて、何もいわなかった。わたしはそれでいいと思うのだ。どちらの場合であるにしろ」
社会学者や人類学者であれば、「それでいい」とは思わないだろう。調査票の婚姻歴の空欄を埋めるために、あわてて電話かメールで追加取材するのではないだろうか。しかし、北米の黒人女性の聞き書をまとめたもう一冊の著書『塩を食う女たち』で藤本さんは、自分がやっているのは民俗学的な調査ではない、というようなことを書いていた。
自分の研究や取材に必要なデータを集めるために、あなたの話を聞いているわけじゃない。今日という日の一期一会の出会いの中で、あなたがいまここで伝えたいと思うことをわたしに聞かせてほしい——。
語り手である黒人女性たちが、ひとりずつ劇場の舞台にあがるようにして、みずからの人生に意味を与え直す大切な物語を披露する。話すことを通じて彼女らが主体的に生きる、ほかの何物にも変えがたい固有の時間のようなものに、客席に座る藤本さんは最大限の敬意を払う。それが聞き書き家としての彼女の流儀なのだろう。ぼくもまたそれでいいと思うし、むしろそれでこそいいと思った。
藤本さんは『ブルースだってただの唄』のエピローグを、かつてアトランタで出会い、106歳で亡くなった黒人の老女アニーさんの面影を回想しつつ、このような文章でしめくくっていた。「それを見たければ、わたしにはすぐに見える。どこにいても、ふり返りさえしたら、すぐ見える」。旅の物語の最後に置かれることばとして、もっとも美しいもののひとつだと感じた。
本を読み終えて目を閉じると、舞台作品のカーテンコールのように登場人物の女たちが手をつないで整列している。壇上に立つ彼女らのすべてを知っているわけではない。みな文字の世界の住人だから、顔すら知らない。しかし、「ことば」を通じて彼女らの人生に一端にふれたという、たしかな手応えがある。いまや自分の中で忘れがたい存在となった黒人女性たちひとりひとりに向かって、立ち上がって大きく手を振りたい気持ちになった。あらんかぎりのリスペクトを込めて。
***
『ブルースだってただの唄』には解説として、韓国文学の翻訳者である斎藤真理子さんのエッセイが収録されている。これがすばらしい内容なのだ。藤本和子さんの聞き書きが、詩人・作家の森崎和江さんの仕事の背中を追うものであることの意義を、斎藤さんはていねいに説いている。森崎さんの代表作『からゆきさん』は、明治以降の九州からアジア各地に渡り、娼婦として仕事をした女たちを追うノンフィクションだ。
『ブルースだって』の中で黒人女性たちは、アメリカの主流の白人社会への「同化」はありえない、と口々に強調していた。それを受けて藤本さんは、朝鮮植民者の子として植民地主義という暴力の歴史を抜きにしないで日本の近現代を問い直した森崎さんの声をおそらく身近に感じながら、こんなことを書いている。「彼女らの視線は、にほん列島に生きる少数者に、同化が答えです、といって疑うこともなかったわれわれにほん人を撃ちはしまいか」。
植民者二世の父の子である「にほん人」として、苦く重い宿題も渡された。
なぜ、いま女たちの声なのだろう。どうして、これほどまで気になるのだろうか。
あいかわらずそんなことをぼんやり思いながら、東京・学芸大学前にあるSUNNY BOY BOOKSに立ち寄った。これから新天地に旅立つという店主の高橋和也さんが、「フェミニズムやジェンダーに関わる本は、うちでも売れていますね」といいながら一冊の本をさしだしてきた。
ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(西山敦子訳、C.I.P. BOOKS)。モダニズムやロストジェネレーション、文学史上の画期を代表する作家たち。T・S・エリオットやスコット・フィッツジェラルドやポール・ボウルズらの妻や恋人たちが、いかに男性作家の「ミューズ」として創作に貢献し、同時に声を奪われてきたかを論じながら、著者自身がアメリカ社会で感じる女性としての生きづらさを語るメモワール、自伝的なエッセイでおもしろかった。
この本に登場する男性作家たちの多くは、ぼく自身にとっても文学的なヒーローであり、ザンブレノの本のページをめくるたびに、心の中の殿堂に飾られた彼らの肖像画がべりべりとはがされるような気分を味わった(余談だが、エリオットといえば長編詩「荒地」。日本の詩人グループに「荒地派」があり、このグループにおける最所フミの存在を思った)。
フランス語翻訳者の相川千尋さんと会うことになったので、彼女が訳したヴィルジニー・デパントのフェミニズム・エッセイ『キングコング・セオリー』(柏書房)を読む。おもしろい、というにはあまりに苦しい著者みずからの性暴力の被害体験や売春体験が語られるのだが、パンチの効いた文体にぐいぐいと引っ張られて、彼女がトラウマ的な記憶をふりかえり、怒りの声をあげ、自分自身を取り戻してゆく物語を一気に読んでしまった。
現代フランスを代表する女性作家といわれるデパントが本の最後に記す「フェミニズムは革命だ」の前後のくだりは、ひとりでも多くの人に読んでほしい。男である自分も、読んでいて身も心も打ち震えるのを感じた。
男性優位主義社会に対して、抵抗と不服従の声をあげる。声をあげることが力になる。そして声をあげるデパントが魂の手に握りしめていたのが、パンクロックの音楽とともに、アメリカなど外国のフェミニストの思想や文学の本に記された「ことば」だったことも見過ごすことはできない。
地縁を越えて、血縁を越えて、時代や国や人種のちがいをも越えていく「ことば」が、女たちの、そして人びとの長い暮らしといのちを支える杖となる。
「ご出身は?」と聞かれると口ごもるぼくは、毎年12月になると「今年はいつから帰省するの?」などと聞かれることも苦手だ。里帰りすべき故郷がある、という実感がまったくないから、どう答えていいかわからない。しかし昨年から新型コロナウイルス禍の影響で、感染拡大予防のため長距離移動を控える自粛ムードが社会に広がり、年の瀬が近づいても周囲で帰省や里帰りが話題になることが少なくなったと思う。面倒なことがひとつなくなり、これはこれで気分がいい。
根なし草のぼくは今日もまた本を読み、本を追いかけ、読むことの川のほとりをさまよい歩いている。女たちの声が過去から受け継ぎ、未来に受け渡す「ことば」のひとつひとつに、ずどんずどんと撃たれながら。