水牛的読書日記 2024年2月

アサノタカオ

2月某日 夜、自宅にてオンライン読書会「猫町倶楽部」のトークイベント「編集さんいらっしゃい!」を視聴。ゲストはキョートット出版の小川恭平さん、石田三枝さん。ふたりの飾らないとつとつとした語りを通じて、本作りの先達として尊敬するキョートットのこれまで歩みを知ることができ、貴重な時間だった。

トークを視聴後、昨年より積ん読の状態だった『このようなやり方で300年の人生を生きていく[新版]』(キョートット出版)を一気に読んだ。著者の小川てつオさんは、2003年から東京都内の公園でテント生活をしながら物々交換カフェを運営、野宿者排除に抵抗する活動もしている。そして小川恭平さんの弟でもある。この本は、そんな小川てつオさんが19歳、似顔絵描きとして沖縄の島々をはじめて放浪した時の日記、さらに10年後の再訪時のエッセイから構成されていて、兄が編集を担当している。タイトルがいい。

「あたいは、船にのっている。でっかい船だ」という1度目にしたら忘れられない文章からはじまる。意志のかたまりのような若い小川てつオさんの旅の物語に、ぐいぐい引き込まれる。土地土地をひょうひょうとさすらいながら、風景に対しても人に対してもつねに一定の距離を持って接し、それでいながらその内奥をじっと見つめ、本質を鷲掴みにするような独特のまなざしを文章からも絵からも感じた。それゆえ小川さんの目を通して描かれる人も風景も、読むものに強烈な印象を残す。

紀行文学は、どうしても個人と土地との二者関係に閉ざされがちで窮屈に感じることもあるが、『このようなやり方で〜』の巻末には、小川恭平さん、石田三枝さんによる詳細な編注が入ることで、個人の物語の背後に広がる歴史や社会を遠望する視点を与えられて、そこがすばらしい。多くの沖縄関連書が紹介されていて、いろいろ読んでみたいと思った。こうした巧みな編集の技によって、高台に連れてきてもらったような見晴らしの良さを、この本に感じた。

納谷衣美さんの装丁や、旅のライブ感を演出するエディトリアルデザインの仕掛けも魅力的だ。

2月某日 先月から引き続き、トーマス・マン『魔の山』(高橋義孝訳、新潮文庫)を読んでいる。下巻を登攀中。

2月某日 こちらも先月から引き続き。中村達さん『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)を読了。後半の章では、カリビアン・フェミニズムやカリビアン・クィア・スタディーズなどの新しい動向を知ることができてよかった。中村さんのこの本から得た大きな発見の一つは、ジャマイカ人の女性作家・思想家シルヴィア・ウィンターの言論だった。巻末には「カリブ海研究リーディングリスト」があり、シルヴィア・ウィンターの論文をはじめ必読書が並んでいる。日本語への翻訳紹介が進むことを期待したい。

2月某日 鎌倉の出版社、港の人へ。天気が良いので、由比ヶ浜にある事務所まで歩いて行った。昨年10月、新宿書房が創業から50年で出版活動を終えて、港の人が在庫本の販売を引き継ぐことになったことを、ニュースで知ったのだった。港の人のウェブサイト「新宿書房SS文庫」のリストをみているとほしい本が何冊かあるので、直接購入しようと思ったのだ。

これまでは図書館で借りて読んできた黒川創さん編集の『外地の日本語文学選』、そしてゾラ・ニール・ハーストンの作品集のシリーズを入手。どちらも90年代に刊行されていて、30年後の新しい目で読み直したいと考えている。そうだ、新宿書房からは詩人・山尾三省の本も刊行されている。久しぶりに会った港の人の上野勇治さん、井上有紀さんと、お茶をいただきながら近況報告のおしゃべり。帰り道、背中に担いだリュックサックがずっしり重い。

2月某日 鶴見俊輔『内にある声と遠い声』(青土社)が届く。国立ハンセン病資料館の学芸員・木村哲也さんが編集した「鶴見俊輔ハンセン病論集」。歴史学、民俗学の研究者である木村さんが長年調査をおこない、温めてきた企画がついに一冊にまとめられたのだ。美しい装丁の本。しっかり読みたいと思う。

2月某日 くぼたのぞみさんと斎藤真理子さん、ふたりの海外文学翻訳者の往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)を読み終えた。言うまでもなく、ふたりとも大変な読書家で、韓国の作家ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』(河出書房新社)から、石原真衣さん『〈沈黙〉の自伝的民族誌』(北海道大学出版会)まで、たくさんの本が紹介されていることも『曇る眼鏡〜』の魅力のひとつだ。

読み進める中で、「生きるための書物」という表現を見つけた。70年代、80年代からJ・M・クッツェーの小説など英語文学の翻訳者として、あるいは韓国文学の翻訳者として歩み始め、仕事をして子育てをし、さまざまな本を読んできたくぼたさん、斎藤さんにとって、書物はまさにそのようなものとしてあるのだろう。

ぴょんぴょんと話題はあちこちに飛躍するのだが、ふたりの語りからは一貫して書物と生きることの近しさが感じられて、そのことに何よりも打たれたのだった。海外文学の翻訳者は大学で研究や教育の仕事のかたわら翻訳を手がける人が多いが、くぼたさんも斎藤さんもそのようなタイプではない。非アカデミックな自主独立の立場で活動するふたりにとって、書物の「ことば」は研究対象として自分の外部にあるものではなかったはずだ。いや、書物の「ことば」を徹底的に研究するのだが、そこで自分の生を抜きにすることはない、と言ったほうが正確だろうか。

タイトルの「眼鏡」から連想してみる。

眼鏡をかけている人ならば、ふだん物を置いたりしない変なところに自分の眼鏡を置き忘れて「眼鏡、眼鏡……」と探しまわる体験をしたことがあるはずだ。眼鏡は、いわば目の一部。鼻や口や耳を取り外して置き忘れることがないように、「目」を置き忘れるはずがない、と思い込んでいるから逆に、変なところに眼鏡を置きっぱなしにしても平気なのだ。眼鏡をかけていることも外していることもつい忘れてしまう、というのは、それだけ眼鏡がすでにからだと一体化していることの証でもある。

この本で、くぼたさんと斎藤さんが紹介する英語文学や韓国文学の「ことば」も、藤本和子や森崎和江といったふたりが尊敬する文学者の先人の「ことば」も、「眼鏡」と同じように、すでにからだと一体化しているものなのだろう。過去の出来事を回想することを往復書簡の一つの方法にしているが、そこで語られるのはいまここにある身体化されたことばだから、単なる昔話という感じが全然しない。「生きるための書物」を媒介にして、必死に何かを求めるふたりが得たある時代の「手触り」が、切実なリアリティや同時代性をもって読者に手渡される。

具体的な読みどころはたくさんあり、語りたいことや気づいたことはいくつも思い浮かぶが、日記のメモとしてはこのぐらいに。本の最後、森崎和江の思想をめぐるふたりのやりとりはじつに刺戟的で、くぼたさんの鋭い批評を受けて斎藤さんが途方もなく大きな問いを残している。「置かれた場所で血を流す人はいつもいて、その人たちにとって小説とは何なのだろう」。読者として、考え続けるしかない。

2月某日 東京・三鷹の書店UNITÉへ。くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』で言及されていた、くぼたさんのエッセイ集『山羊と水葬』(書肆侃侃房)を見つけた。同じ出版社から刊行されたばかりの、中井亜佐子さん『エドワード・サイード ある批評家の残響』と合わせて購入。お店でおいしいコーヒーをいただきながら、スタッフのNさんとおしゃべりする。

その後、大学の図書館で娘と落ち合い、近くのイタリアン・レストランに入った。どことなく見覚えがあるような……ときょろきょろしつつ店内の一角を見た瞬間、記憶がよみがえった。ああ、ここは故・山口昌男先生と一緒に食事をしたお店じゃないか。

2月某日 三重・津のHIBIUTA AND COMPANYで、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第7回を開催。宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読み進めていて、今回ぼくはオンラインで参加。みんなで話し合ったトピックは自動車、性、儀式、傷、植民地主義の歴史など。

2月某日 もう一つ別のオンライン読書会に参加。こちらの課題図書はトーマス・マン『魔の山』下巻。下巻だけで800頁近くあり、読了まで長い道のりだった。

2月某日 集英社文芸ステーションのウェブサイトで、くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんの『曇る眼鏡を拭きながら』の紹介ページを見たら、写真家・植本一子さんの書評「見晴らしをもらう」が掲載されている。すばらしい書評だった。昨年刊行された植本さんの日記エッセイ『こころはひとりぼっち』の読書を再開。植本さんがある人からかけられた「変わらないものってないんですね」ということばが身にしみる。

ところで、植本さんがSNSに「今日はECDの命日です」とお墓の場所の情報を投稿していた。植本さんが撮影した写真を見て以前からそうだろうと思っていたが、ラッパーECDの石田家とアサノ家のお墓は同じ霊園にある。このまま順調にいけばぼくもあそこの地中に入るだろう。生前、ECDに会うことはなかったが、あの世ではじめまして、となるかもしれない。

2月某日 朝日カルチャーセンター横浜教室で今福龍太先生の「クレオールから群島へ」を聴講。「クレオール」や「群島」の文化を実体的な研究対象ではなく、この世界で生きること、表現することのスタイルとして受け止め、思考してきた批評家としての道のりを振り返る内容。批評活動のひとつの成果である『群島-世界論』(岩波書店/水声社)の重要な霊感源として、カリブ海トリニダード出身の思想家・ジャーナリスト・活動家、C・L・R・ジェームズの著作を詳しく紹介していた。日本語にも訳されている『ブラック・ジャコバン トゥーサン・ルーヴェルチュールとハイチ革命』(青木芳夫監訳、大村書店)、『境界を越えて』(本橋哲也訳、月曜社)を読み返したい。ところで『ブラック・ジャコバン』のほうは品切れなのだが古書価格が異常に高騰していて、これでは若い人が手に取るのは難しいだろう。なんとかならないものか。

教室には、能登半島地震の取材からもどった写真家の渋谷敦志さんも来ていて、被災地の状況についていろいろな話を聞くことができた。

2月某日 東京の韓国文化院で成錦鳶カラク保存会の伽耶琴(カヤグム)公演「ソリの道をさがして」に参加。池成子先生の伽耶琴の演奏、唱(歌)をはじめてライブで体感した。舞台にあらわれた池先生は右膝に伽耶琴の頭をのせて、左の素手で弦を時に優しくつまびき、時にぐっと押し込む。演者と伝統楽器が渾然一体となって、深く美しい音を響かせる。伽耶琴がいのちの叫びをあげる人間のようにもみえてくる。そして唱を聴けば、いったいあのちいさなからだのどこから、これほどの声の力がやってくるのか、と驚かされる。ひたすら、会場に渦巻く音声(ソリ)に圧倒されたのだった。保存会のみなさん、ゲストの奏者との合奏もすばらしく、南道民謡「セタリョン(鳥の歌)」など愉しい楽曲もあった。

公演に参加してほんとうによかった。舞台で伽耶琴の演奏をされた保存会会員の朴京美さん(詩人のぱくきょんみさん)にお誘いいただいたのだった。ありがとうございます。帰りの電車で、音の記憶を反芻しながら、ぱくさんのエッセイ集『庭のぬし 思い出す英語のことば』(エディションq)を読んだ。

2月某日 女性史家のもろさわようこさん逝去のお知らせが届く。享年99。本作りの仕事で大変お世話になり、その著作からもお人柄からも——ごく短い期間、電話と手紙でやりとりをしたに過ぎないが——大切な学びをいただいた。自主独立の精神に裏打ちされたもろさわさんの知のことばを、暗い時代に行方を照らす灯りとして受け渡していきたい。合掌。

《いま在るありようではなく、まだない在りようを創りださない限り、光りある明日は望めそうもありません。……私たちも自ら発光体となって足許を照らし、人にも自然にも光り温もる新しい状況を創りだしたい。》
 ——もろさわようこ「はじめに」『新編 激動の中を行く 与謝野晶子女性論集』(新泉社)より