山菜の苦み

イリナ・グリゴレ

東北の冬の話をしても実際に体で感じないと分からないことがたくさんある。私の場合は冬の終わりのころに寒さに耐えられなくなる。泣きたいぐらい寒いと感じる。自分の限界を感じる日がある。しかし、限界だと思う日に幻のように、冬が終わりそうもない中で、窓の下の石の間からフキノトウの黄緑の葉が見える瞬間がくる。

フキノトウはしばらく目で十分に楽しんだあと収穫し、津軽地方でいうバッケ味噌を作る。春を身体で感じる瞬間と言ってもいいぐらい喜びを与えてくれる。軽く炒めてからお酒と味噌を混ぜ、瓶に入れる。冷蔵庫で一か月くらい寝かせると、苦みは甘味に変わる。でも、我慢できないので作った日に一口、二口味見する。苦い。ものすごく苦いが、この苦みは人生そのものだと感じる。この日のために冬を過ごしたように。

この苦みを少しずつ味わう季節が今年もやってきた。近くの有名な公園の桜の花よりも、私にとってはバッケの苦みが春と再生の証拠になってきた。歳とともにこの地域の味が分かるようになったのかもしれない。私の喜びが電波で通じたのだろう、次の日に、お向かいに住んでいる方に誘われて、庭のフキノトウが取り放題になった。その夜は天ぷらに。苦くってカリカリし、日本酒に合う。私を天ぷら達人にした新鮮なフキノトウに感謝。

青森県に住んで、すこし狩猟採集民の気持ちを味わっている気がする。春には山菜、秋にはキノコの達人がいる。物々交換の習慣がまだ残っている。ある秋の日、夫と散歩した山で立派なムラサキシメジを発見した思い出がいまだに魂に刻み込まれている。生まれて初めて紫色のキノコを食べた。いまでも山菜と同じで、人生で食べた一番おいしいもののトップになっている。おいしさの秘訣は新鮮で、自分で取っていることに加えて、野生の物であることだ。山の幸という言葉がぴったり。山菜は自分に嘘をつけない。だから苦い。

何年か前に、父親がたまたま山菜の季節に来日した時のことを思い出した。近所のお母さんから山菜の詰まった袋をもらって天ぷらにした。山ウドを初めて口にした父は「肉みたいだけど肉よりおいしい」と言った。たしかに肉のような美味しさだ。山菜とは世界の肉だ。世界の肉は苦いし、濃い緑色をしている。食べると身体も緑になるが、この世で一番おいしいものなのだ。四月中旬に各道の駅に山ウド、タラの芽、こしあぶら、コゴミ、ボンナ、ねまがりだけ、しどけ、うるい、かたくり、にりんそう、ハンゴンソウの芽などを売っている。名前はおまじないの言葉みたいで私の身体に音からなじむ。白い冬の後にくる緑の波のイメージが私の脳を鮮やかにする。

記憶をたどると、この濃い緑は子供の頃から味わっていた。春先に、ルーマニアではイラクサの若芽を食べていた。津軽ではアイコと呼んで食べる。農作業で手の皮膚が固くなっていた祖母は素手で採って煮て、ポレンタと一緒にお皿にもりもり載せていた。イラクサの濃い緑のペーストと鮮やかな黄色のポレンタの組み合わせは美しかった。伝統的な陶器の食器と木のスプーンも自然のもので、復活祭の前の食事に欠かせない一品だった。こういう暮らしにノスタルジーを感じる自分がいるからこそ、毎日この時期に山菜の天ぷらを永遠に揚げる。こういう時に私は本当に幸せだと思う。解放されるから。いろんなことから、いろんな人から、いろんな世界から。私と山菜と家族の小さな物語をリピートで再生するコツを見つけたわけだ。

休日にいろんなことを考えながら、七号線で秋田へ向かった。山菜を探しに。ラジオから昭和の名曲が流れ、道沿いでは山桜と梅の花が終わりを迎えるなか、ニシンの歌の中のニシンが光る海と桜の景色が同じに見えた。夫は空海と道元の思想を説明してくれる。あっという間に二ツ井に到着。縄文時代の面と古代の杉の木が飾ってあるところで、今月が誕生日だった私は、おまけのハートがついているソフトクリームを買う。子供たちは大喜び。

読んだばかりのジャン=リュック・ナンシーの本「福島のあとで」を思い出す。カントは「人間とはなにか」が答えられないというが、今日は私たちが答えなければならないとナンシーはいう。私も一番知りたいことだ。二ツ井のきみまち坂の写真を見ながら、なんとなくこういう時期が来たと思った。恐怖からの解放、いろんなものからの解放のために、この問いが必要になってくる。山菜と同じで、味が苦いかもしれないが。

狼の眉毛という道具がほしい。先日、夢の中で恐ろしい鬼の頭が道端に落ちていた。はっきり見えて、頭の皮膚が向けられて裏返しになって叫んでいた。「鬼滅の刃」の社会現象が、私の夢にまで延長していたと少し驚いたが、そういう時期なのかと改めて思った。これから苦い啓示の時代なのかな。