私の遺伝子の小さな物語(下)

イリナ・グリゴレ

ルーマニアではロシア正教会に生まれた、私。東方正教には修道院が多く、ルーマニア国内にもたくさんある。子供の時のことを思い出すと祖母の生き方はすごかった。日曜日、村の古い修道院の礼拝に連れられて、礼拝の音や光を浴びた私の身体が懐かしい。古いしきたりに則った礼拝が持つ儀礼のパフォーマンス的な力は身体に響く。神様と自然、すべて神秘的だった。この古い東方正教の人の中には、神様と直接話す人がいる。その聖人は修道院の近くの森や洞窟に入って森の実しか食べず、動物のこと、森のこと、世界のすべてが分かるようになった。ルーマニアに生きている私の家族みたいな一般農民は、政治も科学も信じない。唯一助けになるのは聖人の身体と人生。だから病気になったらこういうすごい聖人の助けを求めるしかない。もちろん、こういう中世の習慣を軽蔑する近代的な人にとってはただの迷信にしか映らないが。私も十八歳から町のポスト社会主義の若者と混ざって子供の時の感覚を忘れがちだったが、病気になると世界観が変わる。

聖人は亡くなっても体が腐らない。そのまま残っていて、ものすごくいい匂いがする。その体が聖になった証拠。私もちょっとみたが、すごいいい匂いがした。

社会主義時代、たくさんの神父さんが拷問にかけられて、殺された。彼らが庶民の力になることを恐れたから。それでも、奇跡的な出来事が起きて、聖人の身体の強さに皆は驚いた。

正教会では、身体が神様のお寺みたいなものだ。だから、病気は罪の表れだと思われる。私だけの罪ではなく、先祖代々の罪がこの私の細胞にある。今までいろんな人生を歩んだ人が自分の中にたくさんいる。私の先祖のことだ。私の身体に細胞の歴史がある。今まで生きてきた先祖の最高の表れが私の身だと思うと、強い責任を感じる。

こうやって自分の先祖のこと考えながら、なぜかトーマス・マンの『魔の山』を思い出した。窓の近くまでいけるようになったら、小さい公園とそこにあるブランコが別の世界のようだった。ある日、向こうの部屋の患者の方が急にいなくなった。ドアから空いている白いベッドが見えた。年配の女性が忙しそうに服を片付け、その夫らしい人が電話でお葬式の準備のことを話していた。この病室にいた方は静かに生から飛び出して幸せなところに戻ったのだろう。この死はどこか中世ヨーロッパの絵でみたことがあるイメージだった。

手術から何日かたって、病院の屋上にはじめて上がった時の穏やかな気分を忘れることができない。太陽の光が私の皮膚を温めてくれた瞬間、これは生きている証拠だと思った。屋上は車椅子でいっぱいだった。この古い病院の患者さんは静かに秋の光を浴びていた。

病院にいる間に二歳の時の私が遊びにきた気がする。ある日、病院のベッドでカモミール茶を飲んでいたら、忘れていた思い出が浮かんできた。二歳ごろの夏だった。野生のカモミール畑で遊んでいた、私。太陽の光がとても気持ち良く、村の子供とカモミールの花を集めていた。病気は私の歴史を改めて考えさせる。

一九八六年、日本では昭和六一年だ。一九八六年に私の弟が生まれた。その年の四月に私はちょうど二歳になった。十日後、チェルノブイリの雲は、私が遊んでいた祖母の家のカモミール畑まで来た。桜の木、庭に植えられた野菜と花、近くの森に、見えない暗い毒を浴びせた。当時、誰も知らなかった。今聞くと、あの時のことはもっと後から分かったらしい。嘘か真実か、誰にも分からない。農民にとってこの土地は身体の一部だから信じがたいだろう。野菜を洗えば大丈夫だろうと皆は思ったに違いない。だって、生まれてからずっとそこにある森や畑、一所懸命育った野菜や花に、見えない、人工悪魔のような毒がついていると突然言われても、嘘のような話にしか聞こえない。とくにチャウシェスクの時代は、なにがリアルかなにが嘘なのかはっきりわからないまま。大自然のことしか信じない。

しかし、私の身体にこの事件の影響がなかったとは言えない。弟が生まれたから、母の乳の代わりに新鮮な牛乳を飲まされて、祖母が作った野菜を食べた。その時に大好きな野菜、家から見えた森やどこまでも広がった野草はひどく傷んでいたのだろう。私の身体が彼らの傷みを感じなかったはずはない。だって、私の身体はその森、花、祖父と祖母の家の一部だと言える。しかし、私たちは人間が作った社会主義の下に暮らしていたことを知らなかった。神様が作った森のこと、虫のこと、野菜や植物のことはたくさん知っていたのに。そして、チェルノブイリのことも、私には誰もなにも言わなかったけど、自然が教えてくれた。

二歳の子どもの身体でも、世界でなにが起きたか感じることは出来るに違いない。あの後、私は悪夢を見た。夢の中で、何日間も、祖父母の家のある村で、森の上の空から腐っている気持ち悪い蛙の雨が降っていた。あの時に、何年間もこの夢を見ることを、地球が私の身体に教えてくれたとしか思えない。そして三十歳になった今でもあの時に傷んだ身体を持つ。その時と同じ病気だ。手術は痛いし大きな傷跡が身体に残された。地球も痛かっただろう。

私の病気は遺伝子のせいと言われるけど、でも二歳までの遺伝子はどうだったのだろう。私の病気は私が生まれる前にこの世界を傷つけた社会主義なのではないか? 私の両親は社会主義に生まれ、彼らの人生の大分を傷めただろう。私の骨、皮膚、細胞は彼らの思いを知らないわけではない。ずっと恐怖の中で生きてきた私の両親は、この恐怖を私の骨と神経に伝えただろう。遺伝子だって、私の先祖の苦しみを知っているだろう。皆の思い、この身体が覚えている。そして病気はこういうものではないか。

手術後に敏感になった私の身体が、そう思った。戦争に行ってきたという感覚に近い。前回の手術と合わせて、今は身体に二十センチ以上の傷がある。戦争に行って二十八歳の若さで帰ってこない先祖の気持ちは、きっと私の気持ちとあまり変わらない。祖父の父さま、大丈夫ですよ、あなたの遺伝子を持っている私、ちゃんとわかっているよ、あなたの苦しみを。私の遺伝子は戦争、原発事故、社会主義を知った。正直に言うと戦争、原発事故、社会主義こそ病気だった。今も世界が傷んでいる。

母の夢をみた。二歳の私と二人で懐かしい村の森にいた。春の明るい日、最初の花が咲く時に、森に遊びに行く習慣があった。木の青い、まだ若い葉っぱから光が入って幻想的な背景を生み出す。目に見えるところまでバヨレート(シラー・シベリカ)の花が広がっている。私たちが楽しそうにバヨレートの花をいっぱいとって家に帰ろうとしている。

森から出ると村に入るまでに村の墓所がある。この墓所に私たちの先祖が森の音を聞きながら眠っている。墓所の前を、私と母がとても青いバヨレートを持って歩いていた。私が二歳ならお母さんは二十六歳ごろ。今の私より若い。夢の私は歩くのに疲れて、母はバヨレートの花束を下に置いて私を抱いて歩き始めた。バヨレートの花が道の真ん中に残った。ちょうど墓所の前のほこりだらけの道路に、光るように青い花が置いてあった。

村に入って、お父さんの実家に寄った。父の母からミートボールを貰うが血の塊が出たミートボールだった。そこから出ようとする。「どこに行く?」と聞かれる。「何でいつもあそこへ?」枯れた声で追い出す。あそことは母の実家のこと。私を育てた祖母に会いに行く。道中、遠い親戚の家の前を通ると、パイをのせたお皿で私達を誘う。庭の中に入ると家の外にパイがたくさん置いてある。家に入ると、亡くなった親戚と軍隊の制服を着ている若い男がスープを飲んでいる姿が見える。若い男が食べ物をテーブルに置いて私の方を見ている。亡くなった親族のお食事会のようだった。この夢こそ私たちの遺伝の物語だった。 

(「図書」2015年5月号)