東京で生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて青森に戻ってから、もうすぐ10年が経つ。この10年間の苦悩を、同じタイムラインで共に暮らした女性たち、植物、りんご、魚、山菜、キノコ、虫に救われたことは間違いない。でも、実はもうひとつ、とても大切なものがあった。外から「あの人、なんて豊かな環境で暮らしているんだろう」と思われても、本人は誰にも言えず、誰にも知られず、潰れそうな苦しみを抱えていることが多い。人間だから。どこに住んでいようと、みんなギリギリのところで潰されずに生きているに違いない。そして、潰されてもおかしくないその瞬間こそ、たいていごく小さな出来事からまた生きる力を拾う。道に落ちたぬいぐるみ、誰かがなくしたのか忘れたのか、可愛いものを踏みそうになった瞬間に、呪術のように力が湧いてくる。
昔から私は、道に落ちた忘れ物や誰かの大切そうだったものを見ると、なぜか幸せな気持ちになる。どんなに落ち込んでいても、それは聖霊たちが私にくれた贈り物だと信じて、ときには拾ってしまう。この前も、白いウサギの欠片と、透明な妖精のプラスチックの羽を見つけて大喜びした。大金でも当たったかのようにはしゃいで、大事にしまっておいたけれど、小さなものを失くすのが得意な私は、たいていどこにしまったか忘れてしまう。それでも「宝物はたくさん持っている」と胸を張って言える。
そんな小さな喜びが、この10年間、もうひとつあった。今住んでいるところが弘前城の近くということもあり、江戸時代からの日本家屋が少し残っている。毎日必ず通り過ぎる古い家の門に、生花が生けてある家がある。花が大好きな私は、また道で小さなオブジェを拾うときと同じように、あの花は自分のために生けてくれているのではないかと錯覚してしまう。特に辛いときは、そう思いたくなる。それはとても幸せなことだと思う。季節の花、庭の花、黒い門に光る。きっとあの花を見て喜んでいるのは私だけじゃない。10年間、毎日のように私はあの花に支えられてきた。車で通り過ぎる一瞬、目を向けるだけで、時間と世界が再構築されるような気がした。
ところが、ここ4日間、同じ道を通っても、花がない。道を間違えたのかと思うほどだ。これまでの反復が途切れた瞬間、『羅生門』の大きな黒い門から鮮やかな花が消えて、ブラックホールだけがぽっかり口を開けているような感覚になる。ピンク、赤、白、黄色の花があったからこそ、今まであの門の黒がどれほど深い黒だったか気づかなかった。花がないとき、あの黒は真っ黒で、目が痛くなるほどで、穴に見える。そこから星ひとつない宇宙に落ちていくのではないかと、思わず車の速度を落とし、口を開けたまま見つめてしまう。1日目に見たとき、思い出した。以前も、たまにそんなことがあった。花を入れ替えるタイミングに通りかかっただけで、朝はなかったのに昼過ぎには新しい花が飾られていた。でも、2日以上続いたことはなかった。
ところが今は4日目。毎日あったものがなくなって、感じていた喜びが消えたわけではないのに、どう反応していいかわからない。こういうときの私が危ない。あの花と一緒に、私も消えたくなる。あの花は祈りのような、繊細な贈り物だったのに、誰かに奪われたのだろうか。返してほしい。誰か、あの花を盗んだのだろうか。そうだ、わかる。盗んだ人が。嘘をつく人。暴力を振るう人。私の苦しみをわかっていても助けてくれない人。今の世の中、そんな人がたくさんいる気がする。花を見て、自分より美しいと嫉妬し、恨み、汚い手を伸ばしてぐちゃぐちゃに握り潰し、足で踏みつけて、川に捨てる。誰にもあの美しい花を見てほしくないから。突然、友人が高校生のときにビルから飛び降りた人の遺体を見た瞬間を思い出した。私が見たように。頭の中で、そのとき近くの川にたくさんの花が流れていく。誰が捨てたのだろう。花を見るのも嫌な世の中になってきたのか。
先日、10年以上ぶりに文楽を見た。人より生きているように見える小さな人形が、足がついているのにいつも浮いているのが私とあまり変わらないきがした。最初は『義経千本桜』の鮮やかな桜の場面に、酒でも飲んだかのように酔った。文楽の繊細な世界に再び呑み込まれて、狐が出たとき、私は完全に狐憑きになった。あの狐は、誰よりも生きているように見えた。
次の『新版歌祭文』――1710年に大阪の野村で起きた事件を元にした恋の話で、巻き込まれた二人が自殺する――は昼の部だったせいか、この日は自殺せずに済んだ。船のおじさんの笑いでおわった。私の心を、一本の本物の大根と、ちょうど咲き始めた梅が奪ってくれた。文楽のいいところは、一人の人間に負担が集中しないこと。人形を動かすには三人、声を出す人も別にいる。できれば、疲れている私の身体も、声を出す人を別に用意してほしい。人形と同じで、私を生かすのにあと三人いても大丈夫な気がする。せめて、私を生かしてくれた門の花を、もう一度だれか生けてほしい。このデリケートな世界がどこかに消えた?