AHAMAY

北村周一

ただしくは、AHAMAY~その右横におなじみの音叉のマークが並んでいる。

それは、ベージュの色のワイシャツに縫い付けられた刺繍の文字、この会社のロゴマークでもある。

もっとただしくいえば、それらはすべて目の前の鏡の中の現実だ。

ぼくはいま、洗面所の鏡の前に立っている。

音叉が三つ重なり合っている。

見ようによっては、アルファベットのYの字に見える。

このブランドの頭文字でもある。

ほんらいなら、アルファベットの左側に位置しなければならない。

AHAMAYのそれぞれのアルファベットが、いずれも左右対称なので、音叉三つのマークともども違和感がない。

そのロゴマークの上に、自分の顔がある。

見慣れた顔である。

目が二つ、こちらを見つめている。

鼻先に視線をうつせば、鏡の中の自分も同様の態度をとる。

まるで、鏡の裏側にもうひとりの自分が入り込んでいるようだ。

しかしながらどこか不自然である。

自分の顔は、まったき左右対称ではないはずだ。

鏡面に映っている顔は自分のものでありながら、自分ではない。

思いかえせば、若い頃、ずいぶんと自画像を描いた。

自画像といっても、ほかに描く相手がいなかったからそうしたまでのことで、廉価な手鏡に映し出された自分の素顔を紙やキャンヴァスに描きとめるしか方法がなかったのである。

それはそれで興味深い訓練でもあったけれど、描かれた自画像が、ほんとうの自分の顔といえるかどうかは釈然としない。

自分が見ている鏡の中の自分と、ほかの人が見ている自分とは、あきらかに異なっているはずだろうから。

なぜなら、鏡の中の自分以外の背景は、ことごとく左右が逆だからである。

しかし驚くべきことに、天地に間違いは見当たらない。

写真機の仕様が現在のようになって、百年近くが経過しただろうか。

写真という、新しい技術によって、ひとは初めて自分の姿かたちを知るようになった。

それは鏡や水面に映っていた自分とも異なるし、肖像画家が描いたひとの顔かたちとも違っていた。

とはいえ、文字通り天地が逆転するほどの驚きでもなかっただろう。

自然は左右対称を欲する、たぶん上下においても、そのように計らおうとする、ように見える。

ひとの顔も、微細なところを省けば、ほぼ左右対称に見える。

見るときに、なんらかの作用が働いている。

抽象(捨象)という概念がアプリオリに働いているように見えるのだ。

洗面所の大きな鏡の前に立ちながら、右手に櫛を持ち髪とかすとき、不意に左右の区別がつかなくなるときがある。

そんなとき、着ていたワイシャツの左胸に目を遣り、あらためて三つの音叉のロゴマークからそのアルファベットを読み直す。

*ヤマハ発動機と、楽器関係のヤマハとでは微妙にロゴマークが異なります。ここで取り上げているのは、ヤマハ発動機のロゴです。くわしくはこちらまで。➡ https://www.yamaha.com/ja/about/history/logo/