もう二十年か三十年前だが、殺人の冤罪で数十年間刑務所に入っていた人が出てきて、テレビのインタビューに答えているのを見た。
外に出てきて驚いたことは、多くの人々が殺人と殺人事件に、とても興味を持っていることだった。と言っていた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。私は人を殺したということで、冤罪で刑務所に入っていた。だから殺人と殺人事件について 普通の人より知りたいのは当然だが、犯罪に関係ない普通の人が、殺人に異常に興味を持つ。なぜだろう?
人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか?
日本における殺人の数は、他の先進国に比べて少ない。
国連の統計によれば(United Nation Office on Drugs and Crimeの2018年統計による)、人口十万人あたりの殺人数はアメリカで5件、イギリスで1・2件、フランスで1・2件、ドイツで0・9件、韓国は0・6件で中国は0・5件。ところが日本は0・3件で、もっとも低い国はシンガポールの0・16件であった。日本の殺人の数は、アメリカの約16分の1になる。
しかし殺人への興味は高い、と殺人の冤罪で出獄した人間は思った。あれは何十年が前のことだが、今では殺人関連の件数(未遂と予備を含める)は1955年の三分の一以下に減っている。
黒澤明のチャンバラ
黒澤明の映画を立て続けに三本みた。まず「七人の侍」(1954年 昭和二十九年)で、主演は三船敏郎と志村喬。志村喬がすばらしい。次に「用心棒」(1961年 昭和三十六年)、主演は三船敏郎と仲代達也。それから「 椿三十郎」(1962年 昭和三十七年)、これも三船と仲代の主演、を立て続けに見た。すでに見ている映画だけど、やはりおもしろかった。
いずれも有名な映画なので筋書きは知っているかもしれないけど、「七人の侍」は、定期的に襲う野武士の集団から、浪人が飯を食べさせてもらう代わりに村を守る話だ。その中の一人が三船敏郎。
「用心棒」は、宿場町で対立する二つヤクザ集団を、三船が衝突させる話。
「 椿三十郎」は汚職を告発しようとしている若侍たちに、三船が加担する「 椿三十郎」が三本の中では、いちばん娯楽映画としてよくできている。最後に登場する悪玉だと思われていたが実は善玉家老(伊藤雄之助)の奥方が、トンチンカンでよろしい。長あごの伊藤雄之助もよろしいが。
この三本の映画では、チャンバラは一本目から三本目に向かって、激しくなる。人がどんどんと切られて死ぬのである。
村を守る七人の侍のうちの四人が死んでしまう。そのなかに三船敏郎も入っている。この映画では、善玉も死ぬ。
「 椿三十郎」で、最後に悪玉の仲代達也が三船敏郎に切られるところでは、血が体からどっと吹き出す。残酷なシーンだが、血が霧のように飛び散る美的な効果を持っている。モノクロの映画ではあるが。
私はこれらの映画を子供の時に見たわけではないが、あの当時の子供たちは、そのへんに落ちている棒を片手に映画のようなチャンバラをしたのである。ただ真剣に、相手の体を叩くわけではない。相手を本当に傷つけてはいけない。バシバシと棒を叩き合う男の子の遊びであった。
やられると「切られた!」と叫んで倒れる。切るのと切られて倒れるのは、演じられるドラマである。一度切られて死んでも、また立ち上がり相手を切る。今度は相手が倒れて、死ぬことになる。
シェーンの防衛的殺人
子供の私のチャンバラごっこ時代と、第二次大戦以後の「ちゃんばら映画」の盛んな時代は重なる。「ちゃんばら映画」は、1920年代(大正末期から昭和の初め)以降、サイレント映画時代に盛んになり、1930年代にはいよいよ盛んになった。第二次世界大戦以後は、その初期にGHQ(連合軍司令部)によって禁止されたが(敵討ちストーリーも禁止された)、私の子供時代、1950年代(昭和30年前後)には盛んになる。
それはまたハリウッド西部劇映画が日本で盛んになった時代とも重なり、私もカウボーイ・ハットをかぶり、オモチャのピストルでバンバンとカウボーイになったのであった。チャンバラとカウボーイは離ればなれの世界だが、1950年代の日本の男の子の中で一緒になる。そして日本でいっせいを風びしたカウボーイ映画「シェーン」は、1953(昭和二十九年)の公開であった。
南北戦争後の西部、ワイオミング州での開拓農民と、元からいる牧場主の争いの場に、流れ者のシェーンがあらわれる。シェーンは開拓農民に加担して牧場主とたたかう。話は村の農民の立場に立ってたたかう「七人の侍」と同じようになる。そして当然に相手がたには殺し屋が登場して、三船敏郎が剣で仲代達也とたたかうように、シェーンは、ピストルの打ち合いで悪玉と戦う。
善玉シェーンは相手を撃ち殺すのだが、これも三船が行うような「合法的殺人」であった。相手がピストルを抜くと、即座にシェーンもピストルを抜き、撃ち殺す。相手がピストルを抜くことが肝心である。その後にシェーンが抜く。防衛戦である。
ボーボワールと冷戦
何十年も前に、シモーヌ・ド・ボーボワールの自伝を読んでいたら、そこにボーボワールとサルトルがハリウッド映画の見るシーンがあった。ボーボワールによれば、1950年代のアメリカ西部劇が、悪玉がピストルを抜き撃とうとした瞬間に、善玉がピストルを抜き、防衛として悪玉を撃ち殺すシーンを中心にして話が組み立てられているのは、アメリカとソ連の冷戦構造をあらわしているとのことだった。相手(ソ連)が核ミサイルを撃とうとした瞬間に、アメリカが核ミサイルを発射してソ連を叩き潰すことを正当化しているのだと。
最初に読んだ時は、もう40年ぐらい前のことだが、あまりに原理的にすぎるなあ、と思った。しかし今になって考えれば、この言葉は当時の冷戦とアメリカ文化を適切に表現しているのではないか。あの当時の日本の子供たちは知らなかったが、ガン(銃)は一貫してアメリカの信仰である。正義の銃とそれの「防衛的発射」は、現在たびたび報道される事件を新聞で読んで分かる通り、アメリカの確固たる信仰、文化なのである。全米ライフル協会(NRA)は、議会に対する政治的力を持ち、また巨大な経済力を持ち、ガンコントロールを跳ね除けている。銃を買ってそれを手に入れるまでに一定期間を設けて、買った人間についてのバックグランド・チェックをすることに反対している。アメリカ憲法修正条項は、個人の武装権を認めている。それがNRAを支える。
シェーンが相手がピストルを抜いた瞬間に、ピストルを抜き「防衛的」に相手を撃ち殺す時、その後ろにはアメリカの人びとのガン信仰と、全米ライフル協会がある。ボーボワールが指摘したように、それは冷戦の文化での表現であったが、しかし今でも善玉が武装して悪玉を防衛的に殺すことは、アメリカで広くある文化である。合法的殺人を、当然のこととして受け入れる文化である。
善玉と悪玉の世界
戦争というのもある。これは合法的殺人の国家・集団レベルのものだ。
世界中で戦争が行われている。戦争といっても一概に同じレベルではない。あるものは人びとを抑圧する戦争であり、あるいは人びとの側からの解放の戦いかもしれない。あるいは、そんな簡単に戦争を分類はできないよ、とも言える。
人種差別による合法的殺人もある。ナチのアウシュビッツでの殺人はその一つであった。それはきわめて組織的に行われた。いま読むと唖然とする。
私たちだって、合法的殺人あそびを、棒の剣を振り回すチャンバラと、おもちゃのピストルを撃つカウボーイごっこをして、大きくなったのだった。
もっともアメリカと違って、日本ではガンも刃渡りの大きなナイフも手に入れにくい。この文章の最初にあげた国連の調査によれば、日本の殺人の数は、アメリカの約16分1のであり。しかしこれは日本でガンが一般に出回っていないからだとは簡単には言えない。それも要因の一つではあるが、殺人の少ないことはアメリカと日本の社会的構造の違い、文化の違いも大きい。しかしこれも最初にあげたように、殺人への興味は高い。日本のメディアでは殺人が広がっている。
殺人の冤罪で刑務所に入っていた人が外に出てきて、多くの人々が殺人と殺人事件に興味を持っていることに驚いた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。
人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか?
私たちは子供の頃から、合法的殺人の文化の中で訓練されている。
もっともある宗教は、ある宗派は、善玉と悪玉の違いがあることを認めない。ある宗教は全部が悪玉だといい、ある宗教は全部が善であるともいう。
しかしながら、善玉と悪玉に分ける考えは、善玉は悪玉を殺していいということは、子供のチャンバラから、国家の戦争まで横断する主要な文化である。