いつどこでも編み物をしたいし、編みはじめたらしばらく没頭したい。できれば無限に没頭したい。そんなすきま時間が今日、確保できるかどうか予想はつかないが、私は常に備えている。どんなに大量のすきま時間が降りかかってもちゃんと編み狂えるように……安心して狂うためには、準備が要るのだ。
その準備について説明する前に、まず、セーターなどのウエアを編むときのモードには2種類あるということを書きたい。車の運転と同じで、マニュアルと、オートだ。かんたんにいうとマニュアルモードは曲線部分を編むことで、オートモードは直線部分を編むことだ。
曲線部分というのは、襟ぐり、袖ぐり、袖山。わかんない人はセーターの「ひらき」、つまり展開図を見てください。この図の中で斜線にしたのがマニュアルモードで編む部分、白いままのがオートモードで編める部分だ。
マニュアルモードのところを編むにはさまざまな注意がいる。編みながらこれらの曲線を形作っていくためには、ちょっとだけ製図の知識が必要になる(そのため私は昔、半年だけ日本ヴォーグ学園というところに通いました)。具体的にはまず、いろんなところを測り、方眼紙の上に図を描き、編み方を決める。その通りに編んでいくのだが、間違えないようにするには集中力がいる。編みながらの微調整も必要になることがある。
一方、オートモードの直線部分はほとんど何も考えなくていい。袖を編むときは下から上へ幅を広げていくので、「何段ごとに一目、編み目を増やす」という操作をしなくてはならないが、その程度なら考えるうちに入らない。
そして私は、何しろ常に編み物を持ち歩きたい。「うちでおとなしく編んでいなさい」といわれると、いやだいやだいやだいやだと神経が反発する。昔、あるニットデザイナーが「織り物は、水平面がないと織り機を設置できないから定住民のもの。編み物は、らくだの背中に乗っていてもできるから遊牧民のもの」と言っていたが、そうなんじゃないかと思う。
そのせいかどうかわからないが、私はほぼ常に、バッグに編みかけを入れておき、暇ができたらカフェなどで編みたい。公園でもいい。条件が許すなら電車でもいい。そして、そのとき編むのは絶対にオートモードの方がいい。できればずーっとオートモードで、カフェで編んでいたい。その欲望の実現のために、白鳥がどんなに必死にもがいているかわかりますか。それはそれは大変なのである。
だって編んでるうちに必ずオート部分は終わり、マニュアル部分に突入してしまう。マニュアル部分を編むにはいろいろと、定住民の方が対応しやすい問題点があるのだ。襟の形が思い通りにできているか見るために、鏡の前で体に当ててみるとか(遊牧民は全身鏡を持ち歩いていない)、着心地の良い他のセーターと比べてみて微調整するとか(遊牧民は全衣類を持ち歩いていない)、間違えて5センチ分、ほどくとか(編む行為と違って、ほどく行為は異様に見える。遊牧民は人目が気になる。しかも、ほどくときはおおむね、鬼の血相をしている)。だからマニュアル部分は家で、オート部分は外で編むのが望ましい。
となると、「外編み用」に持ち歩けるものが常に必要だ。編んでいってマニュアル部分に突入したらそれは家に置いておき、「外編み」には別の編みかけを持っていく。つまり、「当分の間は直線部分だけを編んでいられるぞ!」と安心できる、「理想の編みかけ」が必要で、しかもそれが複数必要だ。そのためには現状を把握し、先を見越して、常に目配りを怠らず、「理想の編みかけ」の供給がとぎれないよう、努力しなくてはならない。なんか、どんどん仕事に似てくる。くやしいが似てくる。
「外編み」が家の近所のカフェや公園に限定されていればまだいい。何日も家を開けるときはもっと大変だ。例えば正月に実家に5日間帰省するとき、編みかけAを持っていくこととする。見積もりでは、5日間ならそれで大丈夫だと思える。でも、私はそんなことでは満足しない。なぜなら私の実家は雪国にあるんですよね。行きか帰りに新幹線が雪で立ち往生して、閉じ込められたらどうなるか? 編むものがなくなってしまうかもしれないじゃないか? 実際には今まで一度も、雪で新幹線が立ち往生した経験などないし、ほんとに雪で閉じ込められたら不安で編み物どころじゃないと思うが、一度想像したら戻れない。
ある年末のことだ。みんなそうだろうけど、年末の帰省前って仕事も押してるし、本当に忙しい。子どもを連れて帰省するとなったらなおさらだ。そんな中私は、短時間で編みかけの問題に対応する必要に迫られた。なぜなら、手もとにあった理想の編みかけA、B、Cがいずれも、比較的短時間でマニュアル部分に突入しそうだったからだ。そこで夜な夜な、新たな編みかけDを作成することに決定し、3時間を費やした(1から編みはじめるにはそれなりにいろいろな手順があるので……)。ほとんど朝になって、理想の編みかけ2点をバッグに詰めて荷造りが終わったとき、私は笑った。こういうのを会心の笑みというのだろう、私以外誰にも理解できないに決まっているが。
これから1週間程度の間にどれだけのすきま時間があるか全くわからないが、いかなる不慮の事態が起きてどれだけのすきま時間が降ってこようと、私はそれを万全の「編み量」で迎え撃つことができるのだ。雪で新幹線が立ち往生しようと、万が一、親が倒れるなどして予想外に帰省が長引いたとしても、大丈夫だ。バッグに入った、かさばる二つの毛糸玉は、何か約束された時間のかたまりなのだ。自分が未来の時間を制御し、掌握し、制圧できるという自信のようなものだ。私以外誰にもそうは見えないに決まっているが。
これ、予期不安なのか多幸症なのかわけわかんない、わかりようがないと自分でも思う。
今も私の手元には「理想の編みかけ」が5種類ある。翻訳が忙しくなったので、その中の2種は3年ほど編みかけのままだ。でも、編みかけが編みかけのままでそこにあると思うと嬉しい。ときどきそれらの山を目にして、「豊作、豊作」と思ってにやにやする。この先どんなすきま時間の束に襲われても十分に迎え撃てると思うから。
こんな考え方はどこからどこまで合理性を欠いている。こんなやり方で時間を味方につけて、私はいったい、どういう未来に備えようとしているのだろう?
私としては、それに対する合理的な答えを自分に求めることはやめている。今、唯一の救いがあるとすれば、それらがすべて一本の糸であって、端っこを引っ張ればするすると解けることだけだ。実際にそんなことはしないが、その可能性が秘められているということにほっとする。際限なく未来の時間をコントロールしようとして現在を消費する、この「編み狂い」の時間もいつか全部消える。そう思うことは一種の解放なのである。
ちなみに、「そんなにまっすぐのところばっかり編んでいたいんだったら、ひざかけとか敷物を編めばいいじゃん」と思うかもしれないが、それは嫌なの。やってみたけどやっぱり嫌だった。何となく、耳のないパンみたいな感じがした。