大多数性/マジョリティ性というのは、おおよそ獲得するものではなく、大多数に属する人々が生まれつき持っているものだ。元から持っているものに能力とか努力は必要ない。いっぽう少数性/マイノリティ性は、もちろん生まれつきの場合もあれば、人生の旅の過程で獲得される場合もある。そしてマイノリティには生きのびるための能力と努力が──それは日常の営みに標準化され、外側からも内側からもはっきりとは見えない──求められるのだろう。
川崎からベルリンに移って一年が経とうとしている。話すとき、ものを書くとき、一つの主語を使わなくなったことに気づいた。それは「わたしたち」という主語だ。自分がマジョリティに属する国を去り移民になることは、「わたしたち」の一部だったわたしを、移住先の国から見れば「彼/彼女ら」の範疇へ移しかえることを意味する。だから、「わたしたち」は消え「わたし」だけが残った、というわけ。
そして、ベルリンには同じような人がたくさん暮らしていて、無数の「わたし」がひしめき、きらめき、くたびれながら、朝の地下鉄や自転車用レーンを行き交っているのだということが、次第にわかってきた。そのような「わたし」たちの多くは、なんらかのコミュニティに属することで「わたしたち」という主語を取り戻すことにそれほど積極的でないように見える(なかでも積極的なのはLGBTQ+コミュニティだが、LGBTQ+当事者だからといってコミュニティに属しているとは限らない)。ある夜、何かの集まりで初めて出会った人と恐いくらいに意気投合し、もしや前世で生き別れた友ではないか、と互いに感じたとしても、夜が明ければ二人とも「わたし」に戻ってなぜかさっぱりした気持ちになり、半年も音沙汰なし、ということが何度もあった。
ちなみに、わたしとわたしの家族が暮らすノイケルンはベルリン環状線(Berliner Ringbahn/ベルリン中心部を囲む鉄道。東京の山手線みたいなイメージ)の南端地区の一つで、人口の五割弱が移民というドイツではもっとも民族的に多様な街だ。民族的に多様、というと素敵な言い方だが、要するに家賃が安く富裕層に人気がないので移民が暮らしやすい、という背景があり、街はごみだらけで、街頭でけんかも絶えない。引っ越してすぐの頃、子供時代の川崎に戻ってきてしまったような、変な既視感を覚えたものだ。
最寄りの地下鉄駅ヘアマン・シュトラーセまで歩くあいだ、ドイツ語よりもトルコ語かアラビア語が耳に飛び込んでくる。ノイケルンで、人の数と景色のマジョリティは圧倒的に地中海東沿岸地域に属するとさえいえる。ドイツからもノイケルンからも二重の異邦人であるわたしが、長い冬のあいだ(ベルリンの冬は文字通り長くて暗くてみじめだ)、どれほど自分を頼りなく感じたことか──ベルリンの「川崎」に少しずつ慣れ、様々にあきらめがつき、わたしがようやく精気?を取り戻したのは四月下旬、パレスチナに関する作品に取りかかることを決め、パレスチナ会議(Palästina Kongress)に参加したころだった。
(つづく)