追いつけなさを、見送らずに見届けること

新井卓

十一月で三歳になったこどもが、よく走る。保育園に迎えにいくと庭の向こうから満面の笑顔で駆けてくるのはかわいいが、通りを車道に向かって疾走するのは少しだけはらはらする。彼が歩道の手前で立ち止まり待っていてくれるのを知っているから、あまり慌てずに、追いつける距離から眼だけで追いかける。その伸び縮みしながら切れることはない距離の快さについて考えている。

ベルリンに移住してちょうど二年が過ぎ、良くも悪くも、いろいろなことを手放したり、見送ることが多くなった。もうまる一年も仕事場が見つけられず、作品も売れずいよいよアルバイトでも、という状況で受け入れが決まったイヴァスキュラ(Jyväskylä)での滞在制作プログラムは、数週間の短い時間ではあったがここ三年の暮らしを振り返る静けさを与えてくれた。

十月下旬、朝夕の冷え込みが厳しくなり、しんと静まり返ったサイマーの湖水を渡り、9,000年もそこにあるという、アストゥヴァンサルミ(Astuvansalmi)の人の顔をした自然岩祭壇をたった一人で見つめていると、何かに見られているようなぼんやりとした感覚があった。高さ10mほどになる岩の、手の届く高さには、ベンガラに動物の脂肪と野鳥の卵を混ぜた顔料で、ヘラジカやカヌー、角の生えた不思議な人物像などが描かれている。それらの岩絵は花崗岩からゆっくりと染み出すケイ素にコーティングされ数千年の風雪を耐えてそこにあった。中でも手形はまるでつい先ほど岩肌に押し付けられたような生々しい気配があり、わずかな体温さえ残っていそうだった。

一万年前、氷河期の終わり、フィノスカンディア地方を覆う厚さ1kmの氷床が溶け出し、溶けながら氷河となって地表の全てを削り取り、やがて海中から、氷の重みから解放された二十億年の岩盤が浮かび上がった。その新しい無機質な地表にはじめて繁茂したのは地衣類だったが、はじめてこの地に辿り着いた地衣たちの一部は、北部フィンランドで、8,000歳を数えてなおまだ生きつづけている。

アストヴァンサルミの対岸にカヤックを引きあげ、踏み締める表土のやわらかさにはっとする。岩肌に数センチほどだけ堆積した土壌は地衣類と苔類がモザイク状に絡みあってできたもので、一群のクロサカズキシメジが、その小さな王国のあるじ然とした顔で咲き誇っていた。フィンランドには人や木々、虫や魚たちに、汀に佇む者の敬虔さがある、と思った。

花崗岩と長く暗い冬の新天地で、わたしたちはみな、たったいま辿りついたばかりだ。生きのびるための技法(アート)が決して強さだけでなく、折り合いをつけながらブリコラージュし、それなくては生きていけない元素を外界から、肌の限りない無防備さによって手にいれるわざであることを、地衣たちは知っている。

Life is easy here(ここで生きるのは簡単)──ラタモ版画写真センターのアンナレーナが、スモークサウナの暗がりで眼を細めながら、屈託ない笑顔を浮かべて言う。

世界への追いつけなさを見送らず、ときに凍てつく冬の眠りに守られながら生きのびること。一年でもっとも暗く、窓辺に飾るヤドリギの鶸(ひわ)色に隠された春の兆しを求める日が近づく。