8月はじめの暑さはひどかったが、今はもうすっかり秋だ。マロニエの葉が茶色くなりはじめたら秋が来るよと教えてくれたのは、去年の夏家に呼んでくれたグザビエだった。今年は8月16日から2日間、コレーズ県にあるトラヴァサックという村に遊びにいった。廃屋を何年もかけて一人で修理し、すべて手作業で住める家にしたというジョルジュの家は、二階の客間が中東の真っ赤な布でさながら赤テントのようにしつらえられており、本人によるとそのテント構造のおかげで夜は快適な温度になるのだそうだが、はたして、赤テント効果かどうかはいざ知らず、ぐっすり寝ることができ、朝は近所の雄鶏の元気な鳴き声によって気持ちよく目覚めることができた。8月はじめ、20ユーロもしたわりに2パターンしか風速を調整できず、しかも使ううちに軋むような音をたてはじめた小型扇風機で寝ていたあのパリの寝室を思えば、こんな幸せなことはない。あっという間に終わったフランスの田舎滞在から戻ってみれば、どうだ、マロニエの葉が茶色く変わり、トゲトゲのついた実が鈴なりである。そして、なんと明け方は肌寒いくらいなのである。秋がきた。秋がきた。
フランスの秋。その素晴らしさを知ったのは、2年前、留学のためにやってきた時だった。持ってきた荷物の整理がひと段落した頃には8月の終わりになっていたのだが、その頃になると市場でもスーパーでも至るところにプラムが並ぶのである。真っ赤なもの、緑色のもの、黄色いもの、わけても一度食べてすっかりとりこになってしまったのが、山吹色に輝くミラベルという小粒のプラムである。大きさは直径2センチほど。水でさっと洗い、皮もむかずに口に放り込むと、その蜜のような深い甘さにびっくりした。ミラベル。なんて美しい響きの名前だろう。それは夏の終わりを告げ、秋のよろこびを教えてくれる果物である。今年もさっそくミラベルが売られはじめた。近所の市場では1キロ3ユーロほどで売っている。一人で買って食べるには200グラムもあれば十分だから、70円ほど払えばこの素敵な果物を心ゆくまで楽しめるのである。それにしても市場には様々なプラムが並んでいる。試しに、ミラベルの隣にあった黒いラグビーボール状のものも買った。こちらは生のプルーンである。
昔からプラムが好きだったが、子どもの頃親しんでいたのは、プラムよりも、むしろボタンキョウだった。ボタンキョウはスモモの一種らしいのだが、プラムよりも実がしまっていて、緑色の皮に朱色がさしている。熟すと紅玉のように真っ赤になるものもあった気がする。夏になるといつも、近所の人や親類がビニル袋いっぱいのボタンキョウを分けてくれた。もらったボタンキョウのうち、いくつかは仏壇に供え、線香のにおいがまだ鼻腔に残っているうちに、水で洗ったボタンキョウを大皿に山盛りにして、腹いっぱいになるまで食べたものである。群馬の田舎から東京に出てからはそのボタンキョウとも縁遠くなってしまった。とはいえ、プラムとの付き合いは切れていなかった。大学一年生の時、夏休みの数週間、北軽井沢の農園で住み込みのアルバイトをしたことがある。生で食べられるとうもろこしや野生種のブルーベリーなどに加え、そこでは何種類ものプラムを作っていた。その農園で初めて、ソルダムという大粒の真っ赤なプラムがあることを知った。朝、果樹園にいくと朝露に濡れたソルダムがゴロゴロ落ちている。木になったまま完熟し、自然に落ちたのである。落ちた衝撃でパックリ割れた実には、親指くらいの大きさのオオスズメバチがとまり、汁を吸っている。うまく草の上に落下した無傷の実を探し、かじりつく。薄い皮がはじけ、真っ赤な果実は口の中でとろけ、唇から溢れる。あの美味しさはなんともいえない。実が柔らかいソルダムは未熟な状態で収穫し、出荷するのだそうだ。出荷途中に追熟し、食べ頃になるという仕掛けである。だが、木になったまま完熟するのとそうでないのとではまったく美味しさが違うのだ。そういえば、あの軽井沢の農園にもプルーンの木はあった。でも収穫するには時期が早すぎて、食べることができなかった。ドライフルーツのプルーンしか知らなかった僕に、農園のおばさんは、生のプルーンはちゅるんとしていておいしいよ、と教えてくれた。ちゅるん? どんな舌触りなのだろう。沼袋の下宿に戻ると、八百屋やスーパーで生のプルーンを求めたが、ちゅるん、とはしていなかった。やはり追熟だからなのか。それとも食べるのが早かったのか。
あれからもう随分と時間がたってしまった。今、目の前にはミラベル、そして件のプルーンがある。ミラベルを口に放り込む。もちろん美味い。それからプルーン。ちゅるん、と薄皮から果肉が飛び出し、口の中でやわらかい果肉とかたい種が自然にほぐれる。農園のおばさんの「ちゅるん」である。それから心ゆくまで、ミラベルとプルーンを交互に楽しんだ。そして、ある計画に思いをはせる。せっかくプラムの季節になったのだ、今年はちょっとプラムで遊んでみよう。今度市場にいったら2キロほどミラベルを買い、ジャムや果実酒にする。このミラベルを塩漬けにして干せば、偽梅干しができるらしい。それも面白い。やってみよう。あれだけの甘さだ。きっと蜂蜜漬けの梅干しみたいに甘しょっぱくて素敵な保存食ができるに違いない。こんな計画だ。
この原稿を書きながら、次の市場の日が楽しみで仕方ない。そうそう、思い返せば、フランスにやってくる前、とある先生に「パリに行ったらダイエットに励むつもりです」とメールしたところ、「秋は美味しいものがたくさんあるので、絶対に無理でしょうね」と返事がきた。「絶対に」という学者らしからぬ断言が印象的だった。さて、実際のところどうなのか。それについては、これまでの文章をお読みくださった方々にはいうまでもないことだろう。