プカプカ

篠原恒木

おれは喫煙者である。

この一文を読んで、これから先を読み進めることを拒否する方々もいるだろう。だが、書き出してしまったのだからもう遅い。「可哀想なヒトだ」「馬鹿なヒトだ」「死ねばいいのに」と思いながら読んでいただきたい。

「喫煙」という文字を見ただけで眉をしかめ、嫌悪、拒絶、忌避、軽蔑、罵倒、非難、憎悪、憤怒の念を抱くヒトはあまりにも多い。言語道断、断固反対、悪逆無道、徹底拒否、極悪非道、無法千万、非難轟轟、陰翳礼讃などの四字熟語もアタマに浮かぶ。いや、最後の四文字は違うか。喫煙習慣のせいで、つい筆が滑ってしまった。

とにかく煙草がやめられない。十八歳のときからショート・ホープを一日二十本吸っている。もう喫煙活動四十五周年だ。おお、アニヴァーサリー・イヤーではないか。めでたい。吸い始めたときは一箱五十円だったような記憶があるが、今では三百円だ。よく考えたら高いよ、バカヤロー。気軽に「一本ちょうだい」などと言われたら、そいつには真空飛び膝蹴りをかまして、ダブルリストロックから膝十字に移行、最後は腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪ってやりたい。

ああ、思わず逆上してしまった。話を戻そう。ショート・ホープは一箱十本入りというのがいい。箱も小さくて好ましい。味は独特の辛味があり、吸ったときのキック感も抜群だ。箱の脇に書いてある表示を見ると、一本当たりのタールの量は14mg、ニコチンは1.1mgと書いてある。ちなみにメビウス・エクストラライト・ボックスはタール3mg、ニコチン0.3mgだそうだ。おれはメビウス・エクストラなんたらという煙草を吸ったことがないが、これを見ても、我がショート・ホープはいわゆる「キツい煙草」だということが分かる。いや、誇らしげに書いているわけではない。さぞや体に悪いだろうなあと慄きながら書いているのだ。でもやめられない。

昔はよかった。どこでも吸えた。駅のホームでも吸えた。飛行機の中でも吸えた。病院の待合室でも吸えたのだ。ところが今では喫茶店でも吸えない。「珈琲と煙草」なんて「梅に鶯」ではないか。町中華に入ってラーメンの汁を飲み干したあとでも、その場では絶対に吸えなくなった。「ラーメン後と煙草」なんて「獅子に牡丹」のはずなのに。まだまだあるぞ。ここでおれは「竹に雀」「波に千鳥」「松に鶴」「紅葉に鹿」などの慣用句を駆使して煙草と相性のいい状況、アイテム、場所を列記しようとしたが、知っている慣用句を列記したことで満足したのでやめておく。

時代は変わったのだ。煙草は害悪なのだ。「今日も元気だ たばこがうまい!」「たばこは動くアクセサリー」などという広告コピーは昔々の話になってしまった。今や煙草の屋外広告も掲出不可だし、テレビのコマーシャルからも締め出されてしまった。ドラマでも登場人物が煙草を吸うシーンはご法度だ。昭和三十年代を時代設定にしたドラマでも、煙草を吸う人は誰一人として出てこない。ここまでいくと不自然なのではないかと思うが、すべては時代の変化なのだ。映画配信のチャンネルでもわざわざ冒頭に「+13 喫煙シーンあり」のテロップが小さく映し出される。もはや煙草は「吸ってはいけないもの」なのは常識で、「吸うのを見てもいけないもの」なのだ。当たり前だ。あれほど健康に悪いものはない。周りの方々にも多大なる迷惑および健康被害をおかけしている。

なので、もう煙草をプカプカと吸う場所はない。おれは血眼になって喫煙所を探す。あるいは喫煙可の喫茶店を探すのだが、「喫煙可」と謳っている大抵のカフェも狭苦しい喫煙ブースに閉じ込められるし、場合によっては「電子タバコのみ」などと言われて排斥されてしまう。おれは大手のカフェ、喫茶店チェーンに向かって声を大にして言いたい。
「アンタがたの不味い珈琲を味わうために店に入ったことは一度もない。我がすべての目的は煙草を吸うためだったのだ。勘違いされては困る」

ついでに書いておこう。あの「電子タバコ」というのは何なのだ。太いストローを短く切ったようなものを握りしめて大の大人がチューチュー吸っているさまは見ていて失笑を禁じ得ない。煙が少ない? 匂いが少ない? なに寝ぼけたことを言っている。屁ぇこくときは思いっきり音を立ててこくもんだ。すかしっ屁とは姑息な奴がするものだ。

家でもプカプカできない。我がツマは煙草が大嫌いなのだ。換気扇の真下でも許さない。俺は世にも狭いバルコニーに出て、真夏の夜の蒸し暑さに耐え、真冬の凍てつく冷え込みに耐え、プカプカする。家の中に入れば洗面所に直行し、指先を石鹼で洗い、リステリンを口に含みブクブクする。それでも居間へ戻れば、愛するツマからの罵声が飛ぶ。
「タバコくさい!」

こんなおれでも煙草をやめたくなるときがある。昔、真冬の午前三時に目が覚め、煙草を吸いたくなった。ところが迂闊にも肝心のショート・ホープが切れていた。一本もない。我慢してそのまま再び寝てしまえばいいのだが、一服することに憑りつかれたおれはパジャマからスウェットの上下に着替え、ダウン・コートを羽織って、近所のコンビニへ行き、ショート・ホープをワン・カートン買って、帰宅後に凍えながらバルコニーで吸った。馬鹿な話だ。睡眠時間が大幅に削られた。このときばかりはあまりのバカバカしさに「禁煙しようかな」と思い、一度は試みたのだが、禁煙開始の二日後に見た夢は「トイレで隠れて煙草を吸っている自分」というものだった。この夢はおれにとってダメージが大きかった。隠れて吸っている、というのがあまりにも情けないではないか。精神的に追い込まれていると判断したおれは翌朝から喫煙を再開した。

もう仕事中でも煙草は吸えない。アイデアを練るとき、ラフ・コンテを描くとき、タイトルをつけるとき、原稿を書くとき、すべて昔は煙草をくわえてプカプカしながら行なっていた。そのほうが素敵な案が浮かんだような気がする。煙草を吸いながら物事を考えるのが喫煙者の習慣なのだ。
「よし、仕事がひと区切りした。休憩して一服しよう」
が本来の姿ではないか、というのは嫌煙家の考えである。おれにとって喫煙とクリエイティヴな作業はボーダーレスだったのだ。しかし時代は変わった。よし、ここまで書いたからバルコニーに行って一服しよう。続きはそのあとだ。

煙草を吸ったら次に何を書くのか忘れてしまった。