モヤモヤ映画館

篠原恒木

大人になってから、映画館には一人で行っている。
二人で観に行くのは嫌だ。ツマとも行かない。男女問わず友人とも行かない。三人以上で観に行くなんて有り得ない。「デートで映画館へ」という経験が過去にあったかどうか、いまおれは思い出そうとしている。
あった。
ツマがまだツマでなかった頃、二人で映画を観に行った。覚えている限りでは二回だ。

『ロッキー』を一緒に観た。シルベスター・スタローン演じるロッキーがチャンピオンに殴られるたびに顔が腫れ上がってくる。そのロッキーの顔面がアップになるたびに彼女(現・ツマ)は、クスクス笑っていた。
「ここは笑うところではない。ヒーローのピンチ・シーンだ」
おれはそう思ったが、しばらく放置していた。ところが彼女があまりにも大きな声で笑い始めたので、周りの観客から注意されてしまった。あれには参った。あの頃からツマは笑いのツボがヒトとは違っていたのだ。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』も、当時ツマになりそうだったツマと一緒に観に行った。映画が始まって五分も経たないうちに、ツマは鼾をかいて寝てしまった。おれは隣の席で眠りこけている彼女を指でつついて、囁いた。
「出ようか」
ツマは頷き、二人は背中を丸めながら映写室をあとにした。もう少しでおれも眠りそうだったので、眠りのツボはツマと一致していたということになる。

この二回の経験を経て、おれは「映画を観るときは一人」のほうが気楽だということを学んだ。だが、二十五年ほど前から映画館に行くことがめっきり減った。理由は大小まとめていくつかある。

まずはシネマ・コンプレックス、略してシネコンの誕生、そして隆盛。これは大きい。あのシネコンがおれを映画館から遠ざけた。おれが観たいと思う映画は公開して数日すると「早朝もしくは深夜の一日一回の上映、しかもいちばん小さいスクリーンで」という扱いになってしまう。それに比べて、朝から夜まで何回も大きなスクリーンで上映されているのはアニメ映画だ。
「資本の論理だから」と言われたらそれまでだろうが、これでは観る気が失せるではないか。朝八時三十分から、あるいは夜の九時五十分から映画館へ足を運ぶのはあまりにもツライ。

そもそも「シネマ・コンプレックス」って何だよ。「映画に対して劣等感を抱いている人間」のことかと思っていたら、「コンプレックス」って「複合」という意味なのね。一か所で複数の作品を上映している映画館が「シネコン」というわけなのか。それ、早く言ってよ。こちとら知能はあるが知識がないんだからさ。考えてみたら、映画に劣等感を感じている奴が映画館に行くわけがないよな。この「シネコン」という名称も気に食わない。

シネコンが入っているビルの面構えも味気ない。昔の映画館ならば、主演俳優に似ているのか似ていないのか微妙な出来栄えの巨大な手描きの看板がドドーンと入口に飾られていて、
「さあ、ようこそ。ここからは夢の世界です」
と言わんばかりの迫力で出迎えてくれていたではないか。あのエネルギーに満ちたギトギト看板はどこへ行ってしまったのだ。それが今は、オフィス・ビルに入ってエスカレーターに乗ったらそこは映画館だった、という感覚である。高揚感というものがない。

そしていまの映画館は上映時間の途中で入ることができない。これもあんまりだ。その昔、いわゆる「三番館」では、いつでも好きな時間に入場できた。現在のような入替制などなかった。映画の途中から小屋に入り、満員なので立ち見して、休憩時間に空いた席にすばやく身を滑らせたものだ。やがて休憩が終わり、映画を最初から観て、
「あ、ここからはさっき観た」
というシーンで途中退場していた。暇を持て余していたときなどは、そのまま最後まで観続けたし、「もう一回観たい」と思ったら、そのまま居残りを決めて再度観ていた。映画館という場所は、まことに呑気な空間だった。

その感覚がいまだに残っているせいか、いまでも映画はあくまでフラリと観に行くものだと思ってしまう。しかし最近ではウェブサイトで上映館と上映時刻を検索していくと、そのまま劇場の座席表が画面に現れる。もう「ぴあ」のページを繰らなくてもいいのだ。いや、その「ぴあ」すら今は発行されていない。画面の座席表の空席をクリックすればチケットが買えてしまう。つまりはいつの間にか映画は全席指定になったのだ。あ、ご存知でしたか。いまや常識ですよね。でもおれはこのシステムを初体験したときは衝撃だったけどなあ。
「二日後の午後十二時に上映開始か。だったらなんとか行けるかも」
とおれは思い、座席を指定してカード決済でチケットを購入する。どうかおれの座席のすぐ前に座高の高いヒトが予約しませんように、と祈ることはもちろんだ。すると、数秒後には二次元コードがスマートフォンに届き、劇場の入口でこの二次元コードの画面をかざせばすぐ入場できてしまう。紙のチケットがないから「もぎり」のヒトもいない。「もぎり」なんて、もはや若い人には通じない言葉だろう。コレ、便利なようだが、おれはなんとなく気に食わない。
あんなに気楽な存在だった映画に自分の予定をガッチリと決められてしまうのが釈然としないのだ。生演奏のコンサートや演劇の舞台など、つまりはライヴならまだわかる。でも相手は映画じゃないか。何百回観たところで俳優の動きが変わるわけではない。それなのに、なぜ万難を排してその上映開始時刻きっかりに出向かなければならないのか。おまけにウェブでチケットを買うと、おれのスマートフォンのカレンダー・アプリには自動的に赤いマークがつき、日時、劇場名、作品名まで登録されてしまっているではないか。
「忘れんなよ。こちとらおまえの予定は把握してるからな」
とプレッシャーをかけられているようで、とても不気味だ。楽しみにしている映画なのに、気が重くなる。

ウェブでチケットを買うとき、おれは六十三歳なので「シニア料金」を選択する。お得だ。有難い。寿ぎである。ところが、だ。シネコンの入場口で二次元コードをかざすときに、受付のコはオレに対していっさい年齢確認をしてくれない。あっさりとノー・チェックで通してくれる。常日頃、
「まだ五十九歳に見えるのではないか。ひょっとしたら五十八歳にも見えるかも」
と、自己評価しているおれにとって、これは悲しい。
「お客さま、本当に六十歳以上でしょうか」
と呼び止めて、身分証明書の提示を求めてくれてもいいではないか。おれは胸を張っておもむろに運転免許証を見せる。すると受付のコはそれを見て、
「大変失礼いたしました。あまりにもお若く見えたものですから」
と、顔を赤らめておれに詫びる。おれは鼻の下を大いに伸ばしつつも低い声で言う。
「いえ、光栄です」
こうでなくっちゃね。
だが現実は違う。どこからどう見てもおれは「六十歳以上」と見た目で瞬時に判断されてしまっている。悔しい。だとしたらコンビニでのあの対応はなんなのだ。煙草を買うときにいつもいつも
「お客さまは二十歳以上ですか」
とレジの画面に問われ、そのたびに「はい」をタッチしているではないか。あの質問はおれのルックスが「ひょっとしたら未成年かもしれない」という疑いが生じたからだろう。そうじゃないのか。単なる決め事なのか。しかしだね、コンビニでは未成年の嫌疑をかけられ、シネコンでは「完全無欠の高齢者」と断定されるのは、どうにも納得がいかない。

いまは大抵の映画が配信され、自宅のTVで観ることができてしまう。そりゃあ映画館とは迫力が段違いだが、好きな時に寝転んで観られるのは有難い。好きなところで一時停止して、もう一度気になった数秒前のシーンを繰り返しチェックできる。途中でトイレにも行ける。主人公が劇中で煙草を吸っているのを観て、
「あ、おれも一服したい」
と思えば、一時停止してベランダに出て煙草も吸える。自由だ。快適だ。この快適さに慣れると、おれはますます映画館から足が遠のいてしまうことになる。

そして、もはやおれのカラダもココロも、三時間もの「超大作」を休憩なしでずっと鑑賞することに耐えられなくなっている。だが、映画館ではそれを強いられる。先日も『ポーはおそれている』を観たいと思ったが、上映時間三時間ということで、おれは断念してしまった。オシッコを我慢できる自信がない。ポーはおそれているのかもしれないが、おれも負けずにおそれているのだ。『オッペンハイマー』も三時間の作品だった。くたびれた。困ったことである。三時間を超えていいのは『七人の侍』と『ゴッドファーザー PARTⅡ』だけだよ。もっともどちらの作品も映画館で上映されたときは休憩時間が設けられていたけどね。
プロの映画監督なら、一作品はなんとか二時間以内でまとめてほしい。できれば九十分が理想だ。最近映画館で観た作品でいうと、タイカ・ワイティティ監督『ネクスト・ゴール・ウィンズ』は一時間四十四分、アキ・カウリスマキ監督『枯れ葉』に至っては一時間二十一分だったが、どちらも素敵な映画だったぞ。長ければいいってもんではないのだ。

しかしながらこの駄文も三千五百字を超えてしまった。ねっ、長ければいいってもんではないでしょ。