ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』という小説があるが、題名からして意味が分からなかった。「たが」と読むことにも驚いた記憶がある。古語なのだね。
余談だが、これがゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演の映画になると『誰が為に鐘は鳴る』と、「ため」が漢字になるのだ。ややこしい。
話を戻そう。つまりはこの題名は「誰のために鐘は鳴るのだろうか。それは特定の人のた
めだけではなく、きみを含めたみんなのために鳴るのだ」というような意味なのだろうなとおれはきわめて勝手に解釈した。でも、ならば「誰がために鐘は鳴るや」とするべきだったのではないか、と思ってしまう。訳者は「や」を足すのが「や」だったのかもしれない。ヨクワカンナイ。
『誰か故郷を想わざる』という霧島昇が歌った戦時歌謡曲がある。作詞は西城八十だ。
また余談だが、「八十」は「やそ」と読む。山本五十六は「いそろく」だもんな、と納得していると、直木三十五は「さんじゅうご」でいいらしい。ややこしい。
話を戻そう。『誰か故郷を想わざる』の「誰か」は「たれか」と読む。「だれか」ではない。霧島昇も「たれか」と歌っている。ついでに言うと、オリジナル発表時には『誰か故郷を想はざる』と、「わ」ではなく「は」と旧仮名遣いになっていて、グッと丸谷才一風味が増している点も見逃せない。いや、見逃してもいいか。
この曲名も意味が取りにくかった。「故郷を想わない人なんているだろうか。いやいない」という、いわゆる反語ですよね。英語で言うところの修辞疑問ってやつですかね。
Who likes Tsuneki Shinohara?
これは「誰が篠原恒木を好きですか?」ではなく、「篠原恒木を好きな人なんているだろうか。いやいない」という意味だもんね。それと同じだと思うんだけどな。ヨクワカンナイ。
オードリー・ヘプバーンとゲイリー・クーパーの主演映画に『昼下がりの情事』という作品があるが、「昼下がり」という言葉をおれはこの映画で初めて知った。しかし「昼下がり」って時刻にすると何時頃なのだろう。おれは勝手に「午後遅め、早めの夕方、だいたい十六時頃」と思い込んでいた。だって昼が下がるんだから、お日様が沈みかけた頃だと解釈していたが、これが違うんですねえ。
またまた余談だが、おれは当初、このタイトルを耳で聞いて『昼下がりのジョージ』だと思っていた。『硝子のジョニー』や『五番街のマリー』などと同じだ。ややこしい。
話を戻そう。「昼下がり」とは辞書を引くとこう書いてある。
「正午を少し過ぎた頃。午後二時頃」
納得いかねぇー。「正午を少し過ぎた頃」ならば、午後十二時十五分頃ないしは十二時二十分頃ではないのか。百歩譲って十二時二十五分だ。それ以上は待てない。いや、待ち合わせじゃないか。つまりだ。おれが訴えたいのは「正午を少し過ぎた頃」と「午後二時頃」の整合性だ。「午後二時頃」は「正午をだいぶ過ぎた頃」じゃんね。二時間あったらいろんなことができるよ。おれが勝手に思い込んでいた「十六時頃」というのは間違いだったとは認めるが、「正午を少し過ぎた頃。午後二時頃」の並列定義には首を傾げざるを得ないね。これこそ「誰か『正午を少し過ぎた頃』を『午後二時頃』と想はざる」ですよ。ヨクワカンナイ。
「小春日和」という言葉も、いつ使ったらいいのか自信がなかった。「今日は思わぬ暖かさですねぇ」と言う代わりに「小春日和ですなぁ」と言いたいのだが、この言葉、晩秋から初冬にかけての時期にしか使わないものだという。イメージとしては「小さい春」なのだから、冬の終わり頃に使えばいいではないか。ほら、『小さい秋見つけた』だって、あれは秋の訪れを歌った曲でしょ。なぜ「春」とは縁もゆかりもない「晩秋から初冬にかけて」に使うのか。その故事来歴由来謂れ理由を検索したいけど、しない。
四度目の余談だが、井上陽水に『小春おばさん』という曲がある。タイトルは可愛らしくて、歌も囁くように始まるが、サビになると突然あの大きな声で歌い上げるので、とても恐怖を感じる。小春おばさんに明日会いに行くだけなのに、なぜあんなに切羽詰まった絶唱なのか。怖い。ややこしい。
話を戻そう。そういえば、さだまさしが作って山口百恵がヒットさせた『秋桜』という曲があるが、あの歌詞の中でも「こんな小春日和の穏やかな日は」とある。やはり「小春日和」は晩秋から初冬にかけて使う言葉なのだな、と思ったら、なんだよ、コスモスが咲くのは九月から十月にかけてだというではないか。その頃は晩秋でもなければ初冬でもないぞ。混乱してきた。ヨクワカンナイ。
「五月雨」はその名の通り五月の雨だと思っていた。フォーク・シンガーのケメも『通りゃんせ』という曲で「さみだれ五月よ くるがいい」と歌っていたではないか。だからおれも五月に雨が降ると「五月雨とはよく言ったもので」などと訳知り顔で時候の挨拶をしていたが、とんだ間違いだった。五月雨って六月に降る雨、つまり梅雨のことなんですって。つゆ知らず。
余談の極みだが、「五月雨式で申し訳ございません」という冒頭の挨拶から始まるメールがよく届く。「五月雨調」でも「五月雨的」でもない。ましてや「五月雨風」だと「さみだれふう」ではなく「ごがつあめかぜ」と読んでしまう恐れがあるよね。まあとにかく、あくまで五月雨「式」なのだ。なぜ「式」なのかは知らぬが、最初に五月雨式と恐縮しながら、とにかくいろんな追加事項やら添付忘れのpdfやらがダラダラと送られてくる。ややこしい。
話を戻そう。五月雨という言葉には趣があるが、もはや我が身は耳垂れとヨダレしか出ない。冷やし中華にはゴマダレだ。まったく話が戻っていない。ヨクワカンナイ。
「レオナルド・ダ・ヴインチ」と区切るのが正解らしい。つい「レオナルド・ダヴィンチ」というニュアンスで口に出している自分に気付く。「ヴァスコ・ダ・ガマ」も「ヴァスコダ・ガマ」ですよねー。ついでに言えば、昔の教科書では「バスコ」だったような気がする。「ドン・キホーテ」は「ドンキ・ホーテ」のほうが言いやすい。一方では「ジャン=ポール・ベルモンド」なのに他方では「ジャンフランコ・フェレ」ですよ。つまりは外国人の名前の区切り方が曖昧になってしまう。
こうなったら意地でも余談に引きずり込むが、普通だったら「浜木綿子」は「はまき・わたこ」と読んでしまいませんか。おれだけかな。区切り方が合っていても「はま・もめんこ」と読んだ人はいませんか。いませんね。「はまゆう・こ」と区切った人はいませんか。いるわけないよね。苗字が「はまゆう」で、名前が「こ」だもんな。
「時任三郎」を「とき・にんざぶろう」と読んだ人は、先生、いまなら目をつぶっていますから手を挙げてください。ほら、いたね。あ、ごめん、目ェ開けちゃった。
「勝新太郎」を「かつしん・たろう」と読んだ人は……いないか、ちぇっ。
「仲里依紗」を「なかざと・いさ」と読んだ人をおれは知っている。「清少納言」については割愛させてもらう。つまりは和洋を問わず姓名分離は意外と難しいと思う。ややこしい。ヨクワカンナイ。
歳を取ったらヨクワカンナイことは少なくなっていくと思っていたが、何のことはない、どんどん増えている。素晴らしき哉、人生! あ、「哉」は「や」ではなく「かな」だよ。