無学

篠原恒木

以前にも書いたが、おれは名うての無学である。

「先生」は平仮名で書くと「せんせい」ですよね。
でもおれは声に出すときには「センセー」だ。「センセイ」と「イ」をきちんと発音しない。
「人生」は「じんせい」で、「衛星」は「えいせい」、「堤防」は「ていぼう」だ。それは分かっています、はい。でも、会話のときは「ジンセー」「エーセー」「テーボー」だよ。ついでに「資生堂」は「シセード―」です。「KOSÉ」は「コーセー」です。あ、コーセーはそれでいいのか。
「用紙費用の高騰傾向に税制改正が重なり価格改定」は「ヨーシヒヨーのコートーケーコーにゼーセーカイセーが重なり価格カイテー」だ。これが昂じると、パソコンに向かったときも、つい「センセー」「ジンセー」などと打ってしまい、変換候補が現れないという事態になる。これをヒトは阿呆と言う。

「脱出」は「だしゅつ」だとばかり思っていた。「だっしゅつ」とは発音したことがないもんなぁ。「手術」は「シジツ」です。「しゅじゅつ」って言いにくいでしょ。つげ義春は「シリツ」だったけど、さすがに「シリツ」まではいかない。

「小品」を「こしな」と読んでいた。それはよしな。
歌詞のカン違いも多い。「濡れて来ぬかと 気にかかる」を「濡れて小糠と 木にかかる」と思っていた。雨だけにね。
「地面」はひらがなにすると「ぢめん」じゃないのか。なぜ「じめん」なの。「地」は「ち」だから、そのまま濁点をつけて「ぢ」じゃないのか。「鼻血」は「はなぢ」でしょ。関係ないけど「痔」は「じ」より「ぢ」のほうが相応しいような気がする。おれはシジツを受けたからよくわかる。あれは断じて「じ」ではない。「ぢ」ですよ。まあともかくそのあたりの法則性が分からない。

「ひ」と「し」の区別がつかなくなることがある。さすがに文章にするときは分かるのだが、喋っていると混乱してくる。「薬師丸ひろ子」「田原俊彦」を「やくひまるしろこ」「たはらとひしこ」と言ってしまい、笑われる。やかましい、こちとら江戸っ子でぃ、そこをシダリに曲がったらマッツグ行ってドンツキでぃ。

「根本的」と「抜本的」の違いがワカンナイ。まあ、滅多に使わない言葉だからいいんだけどさ。「修正」と「修整」も紛らわしいよなあ。「修整して修正を終えた」みたいな? よく考えるとヨクワカンナイ。
「既成」と「既製」の違いも分からない。「制作」と「製作」ってどう違うのさ。「進路」と「針路」は同じようなもんじゃないのか。違うんでしょうな。
「十分」なのか「充分」なのか。どっちを使っていいのかワカンナイ。だからなるべくその言葉を書かないようにと、じゅうぶんの注意を払っている。
「柔らかい」と「軟らかい」はどう違うの? 無学なおれにも分かるように柔軟性をもって説明してほしい。
「訪問」はどこかへ行くわけだから「門」をくぐることになるよね。だったらなぜ「訪門」ではないのか。ずっと「訪門」だと思っていた。

野菜の名前が分からない。聞いたことはあるし、食べたこともあるのだが、分からないものは分からないのだよ。チコリ、エンダイブ、ラディッキオ、アーティチョークなどと突然言われると「何だっけ」となる。姿かたちが咄嗟にイメージできない。
洋野菜だけではない。和野菜に関してもきわめて不案内だ。「かつを菜」「二十日大根」を絵に描けと言われたら困る。
そうだ、それで思い出した。おれはスタインベックの『二十日鼠と人間』を『にじゅうにち鼠と人間』と読んで、ストーリーは鼠の大群と人間の二十日間にわたる攻防戦だと勝手に思い込んでいた。この場を借りてスタインベックさんにはオノレの無学についてお詫びを申し述べたい。

料理名や調理用語にも戸惑うことが多い。
「ぬた」「ずんだ」「煮びたし」をそれぞれ五十字以内で説明せよ、と言われるとお手上げだ。「カチャトーラ」「フリカッセ」「アーリオオーリオ」なぁんて言われると、アタマの中が痒くなってくる。出されたメニュー表に「ペリゴール産フォアグラのテリーヌ トリュフとブッフサレ リ・ド・ヴォとレンズ豆のガトー仕立て」などと書いてあると、ええい、しゃらくさい、いちいち訊くのも面倒だ、イチかバチかでとにかくオーダーしちまうか、と思ってしまう。いや、値段を見ると高いのでやめておくけどさ。

パソコン用語も苦手だ。
「JPEG」とヒトは気軽に言うけれど、JPEGとは何ぞや。デジタル画像のファイル形式なんだろうなとはおぼろげには理解できているが、なぜ「ジェイペグ」と呼称されるのか分からない。そこでおれはパソコンのエキスパートに訊く。
「ジェイペグってどういう意味?」
すると奴はこう答える。
「JPEGはJPEGですよ」
答えになっていないではないか。仕方ない、おれはこの文章を書くために調べました。JPEGとはJoint Photographic Experts Groupの略なんだぜ。どうだ、ザマミロと言いたいところだが、おれも「なるほど、それで分かった」とはならないところが悲しい。
「TIFF」とヒトは訳知り顔で言うけれど、何だよTIFFって。なーんとなく「JPEGは軽くてTIFFは重い」と勝手に解釈しているが、それでいいのか。そこでおれは頼まれもしないのにまた調べましたよ。ティフ、つまりTIFFとはTagged Image File Formatなのだ。どうでぃ、知らなかっただろう、ビックリしてひっくり返って腰抜かしやがれとは思うものの、おれも意味はさっぱりワカンナイ。ああ、無学なり。悔しい。

国民年金と厚生年金の違いがヨクワカンナイ。
「基本だよ、ワトソン君」
と、ホームズさんに咎められそうだが、知らないのだから仕方がない。だいたいワトソンなのかワトスンなのか。ジョージ・ハリソンなのかジョージ・ハリスンなのか。
話を戻そう。年金支給の申請をしなければと思い、役所に電話したら「雇用保険にはご加入していますか」と問われ、返事に詰まった。国民年金と厚生年金との区別もつかないのに、今度は雇用保険ときたもんだ。コヨーホケン?
「雇用保険って何ですか」
「失礼ですが、会社などにお勤めですか?」
「はい。恥ずかしながら二十二歳から六十四歳になろうとしている今までずっと同じ会社に勤めています」
「それならば雇用保険にはご加入されていますね」
「あ、そうなんですか。そういうもんですか」
「その雇用保険の被保険者証明書をご用意ください」
「あのお、それはどこにあるんですか」
電話していて、だんだん自分が惨めになってきた。社会の仕組みを知らなすぎる。

国債、為替介入、異次元の金融緩和、新NISA、iDeCo、日経ダウ平均、全部分からん。経済用語、投資用語の知識が皆無だ。株も投資もやったことがない。「働かなければゼニは稼げない」と思っているからだ。うまくやっているヒトもいるんだろうなぁ。

地理に疎い。オランダとベルギーの位置がごっちゃになる。カリブ海の島々でかろうじて分かるのはキューバとジャマイカだけだ。オーストラリアの首都が思い出せない。これだけニュースになっているのに、中東の国々の位置が正確に指差せない。

足し算、引き算も曖昧だ。10+10=20などは平気だが、37+19のようになると即答できない。引き算も73-17などは「応用問題」のような気分になる。あ、いま気付いたけど、おれは素数に弱いのかもしれないな。掛け算と割り算については割愛だ。

歴史もつらいね。「マラトンの戦い」「カノッサの屈辱」「ボストン茶会事件」「リットン調査団」などというフレーズは、その響きがユニークなので覚えているのだが、それぞれいつ何が起こったのかに関しては、まるで分からない。あ、「大塩平八郎の乱」だけはなぜか何となく覚えている。ある会議の席上、腹に据えかねた件があったので、思うトコロをまくしたてたら会議終了後に、
「よく言ってくれた。アレはみんな理不尽だと思っていたんだ」
と声を掛けた奴がいたので、
「だったらおまえが言えよ。おれは大塩平八郎じゃねぇや」
と言ったらキョトンとしていた。ぐふふ、おれより無学の奴がいると内心ほくそえんでいたが、のちになってそいつは出世して、おれは塩漬けにされた。死ななかっただけマシだが、歴史は繰り返す。

「ダイバーシティ」と聞くと、お台場のショッピング・モールを思い出してしまう。いいじゃないか、そんな阿呆な奴がいても。それこそが多様性だよ。

しかしですな。勉強に勉強を重ね、思考を繰り返し、世の中のことを隅から隅まで知り尽くしてしまったら、現実のあまりの酷さに絶望して生きる気力もなくなってしまうに違いない。神経の細いおれはそう思うのですよ。無学だからどうにか生きていける。そうやって生きていくのがいいことなのか悪いことなのかは別だけどさ。違いますか、お偉いセージカの皆様。あなたがたは国内、国外の裏も表もすべて知っているんでしょ? 特に精通されているのは裏ですよね。よくもまあ元気に生きていられますな。