誰かの熱烈なファンになるというのは、割と無縁な人生だ。一人のミュージシャンが好きでライブに通いつめる、とか、アイドルのファンクラブに入るとか、この俳優が出る映画はすべて観る、とか「誰々のファンです」と言える人に半ば羨ましさすら抱いてきた。そう公言しなければならない場面に出くわすと、しどろもどろになる。今現存する同時代人に首ったけになれない、ということは、何か欠如しているのではないだろうか、生きる上での熱量みたいなものが足りてないんじゃないだろうか? とそのつど思う。実際のところ、そうかもしれない。でも人物を軸に追いかける、という追いかけ方でなくとも、「何となくすべてに青いイメージがある」とか「叙情的でないんだけれども、静かに耳を傾けると声が聴こえる」とか、好きなものを寄り集めて振り返ってみると、何か一本筋が通っている気がする、ということは往々にしてある。「何が好きなの?」「どんな男性がタイプ?」みたいな紋切り型の質問につい口を閉ざしてしまうのは、そもそも「好き」を語ることが、その定型に乗らない以上難しいことに思えるし、そもそも好きを語ることって、そんな簡単なことではないだろうとどこかで思っている。そう自己分析してみると自分の職業にも納得がゆくのだが、今回、宇多田ヒカルの新曲の数々を聴いて、ああ、そんな語りが圧倒的にくだらないものだ、と思うほどに揺さぶられてしまった。『Fantom』はすごいアルバムだ。
朝ドラのテーマ曲になっている「花束を君に」だけでなく、「人魚」「真夏の通り雨」などアルバム収録曲に収められている曲の多くが亡くなった母親である藤圭子に向けて歌われたもの、と感じられる。それは大変な最中に書かれたような詩もあれば、もっと月日の経過を経て、昇華された思いのものもある。直接的に吐き出すように思いを吐露したものもあれば、そっと真綿で包んだような優しい一曲も。中でも心打たれたのは「道」「花束を君に」の2曲だ。私信のような形をとりながらも、私信を超えてすべての人に、そして未来に届くものになっている。宇多田ならではの、切ない寂しさをかきたてる翳りも感じられるのだが、メロディも歌詞もその一歩先に歩みだして、しなやかな強さを湛えたものになっている。そこに光を感じた。自分と母を別人格として切り離しながらも、つながりに感謝し、その母の面影を讃える。実在の母はいなくなったけれども、過去に戻ることはできないけれど、でもよりいっそう強く、心の中に、未来に、歌を作り歌う行為の中に母を感じるのだ−ということが歌われていると思う。
「道」の歌詞の中に形を変えてリピートされる「It’s a lonley road.But I’m not alone.そんな気分」「It’s a lonely road.You are every song.それは事実」という歌詞がある。とてもシンプルな歌詞なのに、なんて人生の本質を語ったものだろうと思う。「人生は孤独なもの」と言ったのち、「でも一人じゃない」と思えるまでの距離の長さを考えてしまうと切なく(活動休止期間をも思い)、「そんな気分」と言い添えて軽さを加えるというか、本当は「ひとりじゃない、と言い切れないかもしれないけど、そうかもしれない」という不確定さをポンと添えてかわすあたりが、宇多田らしくて好きだ。そしてその後、「人生は孤独なもの」なのに「あなたはすべての歌」と言えてしまうって本当にすごい。しかも「それは事実」。「一人じゃない」のは「そんな気分」だけど、「あなたはすべての歌」なのは「事実」。
歌を歌うことが藤圭子と宇多田ヒカルをつなぐものだっただろうし、母が藤圭子であるのだから、母の像から逃れ難かった場面も数え切れないほどにあっただろうと思う。でも、「私はあなたといつも共にある」というメッセージを、二人をつなぐ「歌」に変えて「歌う」。それは歌われる数ほどに、every songの中の一つとして彼女の心の中により深く刻まれてゆくのだろうし、彼女の人生が深まると共に母との関係性を深めるものにもなるのだろう。歌が歌になり、そうして道が道になる、と考えるとシンプルなのにその道のりと未来へ続く時間もが内包された息の長い歌詞に思えて、また泣けてしまう。それにしても、「それは事実」には誰がなんといっても、過去がどういうものであっても、そう言い切れるほどに豊かなものなのだ、という母への語りかけに思える。彼女とは同学年ということもあって格別な思いだが、一歩先に行ってしまったことに若干の寂しさを感じつつも、同じ時代に生まれて歌を歌い続けてくれることに励まされる思いだ。