彼らには、それが分かる。

越川道夫

得体の知れない苛立ちと息苦しさの中で日々が過ぎ去ってしまった。それでも、まだ梅雨入りの報せが届かない頃は、近くの神社の境内にある菩提樹の花が満開になり、それを毎日のように見上げに行った。細切れの睡眠が続き、何かを漠然と待ち続けているような日々の中で、今月は菩提樹の花に救われるのかもしれない、などと思っていたのだ。しかし、私は何を待っているのだろう?
この春は、私の周りに限って言えば、蝶やトンボを見かけることが少ないように思う。そこここで行われた工事のせいで、彼らの棲息している場所が壊されてしまったのかもしれない。借家の庭にある柿の木が、植木屋にひどく切られてしまったことがあった。裸の木。そうなってしまうとまた実がなるまでに3年かかった。一度壊してしまえば、修復されるまでに時間がかかる。かかるのだけれど、また修復されるところが自然というものの凄みなのかもしれない、廃屋を緑が覆い、やがてその建物を壊し飲み込んでしまうように。
 
映画の撮影をしていると、こういうことがある。例えば、奄美の島で撮影をしていた時、芝居のテストが終わり、スタッフが忙しく照明などの準備をする。多くの人々が動く。やっと準備が整い、本番に行きましょうか、ということになるのだが、人々が慌ただしく動いたその場所は一見そうは見えなくても、踏み荒らされ、その準備の騒めきが消えていない。消えていないどころか、場所は落ち着きなく震えている。言ってしまえば、そこは登場人物たちが暮らす島の場所でも何でもなくなってしまっているのだ。それは、「奄美」に限らない、「いわき」でも、「長島」でも、どこでもそうだった。言ってしまえば、場所は怯え、どこでもない、ただ怯えた空間がそこにはあった。助監督が、じゃあ、カメラを回しましょう、と言う。しかし、これでは何も写りはしない。スケジュールが立て込んでいるので焦る気持ちはあるのだが、ちょっと待って欲しい、とみんなに頼む。この場所が落ち着き始め、その「場所」であるのを取り戻すのをジッと待つのだ。俳優たちもスタッフもスタンバイのまま、待つ。誰も動いてはいけない。動けば、また同じことだ。待っていると、場所はだんだんその「場所」であることを取り戻していく。どこでもない怯えた空間が、その「場所」に、「島」に戻っていく。鳥が鳴き始める。蝶やトンボが戻ってくる。もういいかい、と「場所」と会話をしながら、それを待っている。
 
いつもならば、仕事場への途中で、とまっている蝶やトンボを素手で捕まえる。一心に花の蜜を吸っている蝶に静かに近づき、人差し指と中指をそっと蝶の羽の横に差し出し、羽をなるべく傷つけないようにゆっくりと挟むのだ。モンシロチョウでもアゲハチョウでも、トンボでも。もちろん、すぐ離すのだけれど。経験的な物言いで申し訳ないが、私と蝶やトンボのリズムが調和していると感じられる時には、慌てて指を挟まなくても、Vの字にした指の間にいる蝶はジッとしていて逃げることはない。調和していない時、例えば私の胸の内が騒ついていたりすると、ちょっと動いただけでも蝶やトンボは飛び去っていってしまう。仕事に向かう数分の間、そんなふうに虫たちに遊んでもらいながら、その日の自分の状態を確かめていたのだろうと思う。数は少ないながらも、今年も試し見てはいるのだが、一度もできたことがない。ただの一度も。私の胸の内は、いま随分と乱れ、騒ついているらしい。彼らには、それが分かる。