愛しさを抱えて

越川道夫

いつも何冊もの本を抱えて移動している。鞄の中はいつも5冊ぐらいの本が詰め詰めに押しこんであって、なぜそんなに本を持って歩くのか、全部読みもしないのに、と人から言われることもしばしばである。そのたびに、まあ、いいんですよ、これが今の僕の頭の中なのです、と答えるのだが、指摘される通り移動中目を通すのはその中の一冊がいいところである。
移動中ばかりではない。トイレの中も、風呂に入る時も本を抱えている。寝る時も鞄の中に入っていた本をごっそりと、ひどい時には手に抱えきれず顎で支えながら移動することになる。そんな姿を見た母から「本との分離不安」と笑われたこともある。子供の頃からずっとそうなのである。映画を生業にしているくせに映画を見ない日は多い。しかし本を読まない日はない。仕事場に読みかけの本を忘れてきた日は、早くその本にしたいと、自分の頭の中から何か大切なものが欠落してしまったような落ち着かない不安定さを抱えてしまうのだ。母の言う通り「分離不安」なのかもしれない。
そのくせ、言葉は滑り落ちていく。いくら読んでも言葉は自分の内に定着することなく、読んだ端から滑り落ち何も残らないような気がしている。いや、知らず知らずの内にどこかに沈殿し、残っているはずだとも思う。思うが、それは実感できた試しがない。読んでいる最中はもちろん楽しいのだが、「本」の「言葉」は決して自分のものになることはなく、その「言葉」は目の前に閉じられた「本」の中にしかない。
 
「言葉は、自分の外にあって、私の体は「言葉」ではできてはいない」。
ずっとそう思ってきた。「私」と「言葉」は透明に繋がってはいない。むしろ、仲が悪いくらいなのものだ、と。自分で書いたものであろうが、誰かが書いたものであろうが、「言葉」はいつも私にとって「他者」なのだ。「書く」ことも「読む」ことも私にとっての「他者」に会いにいくことであるのかもしれない。しかし、「見る」ことは…。
 
私の眼はポンコツで、今でさえどんなに眼鏡で矯正しても、もはやピントが合うことはない。放っておけばやがては見えなくなるだろう。手術をすれば見えるようにはなるのだから、さっさっと手術でもなんでもすればいいのだ。しかし、手術をした眼は、おそらく今までの眼とは異なる「眼」なのであって、何かが(何かは分からない)変わってしまうのではないか。それをどこかで恐れている。私は、ある「愛しさ」で世界を「見る」。見て、そして「愛しさ」で体を震わせている。そこで感じる「愛しさ」を「新しい眼」でも私は感じることができるだろうか?
 
白い百合の季節は、咲くまでに気を持たせた挙句、一旦花が開くとあっという間に過ぎてしまった。河原に繁茂する葛の花は、昨年よりも一週間遅れて咲き始めた。
 
私は「愛しさ」を抱えて、毎日それを見にいくのだ。
陽が沈む前にと葛の花が咲く河原へと急ぐ足が躍る。