プロメテウスの火――ギリシャ神話に登場する、人間を創造し、火を与えたとされる神、それがプロメテウスだ。ゼウスの怒りを買い、岩山に縛り付けられたと伝わる。西洋世界の東の果てにあるコーカサス山脈に、その岩山はあったとされ、ジョージアには「プロメテウスの洞窟」なる場所があり、観光地になっているほどだ。
「プロメテウスの火」とは、人間の手に負えぬものを指し、さまざまな比喩に使われる。最近では原子力に喩えられるのを、日本では見聞きすることが多い。ジョージアのあたりは、西洋世界から見て、なにか得体の知れないものが生まれる辺境の地なのかもしれない。
このコーカサス山脈は、ジョージアとロシアを隔てる高い壁でもある。山脈の向こうには大国ロシアが控えており、ジョージア側から見て北西の壁際にあるのがスバネティ地方だ。首都トビリシから車でも一日がかりのこの土地は、「ジョージア人」にとっては、言葉も風俗習慣も違うスヴァン人が住む、道路が通じるまでは異国の地だった。スヴァン語には古代ジョージア語が残っており、ジョージア語が入るまでは文字はなかったそうだ。勇猛な戦士の民族として知られ、ポリフォニー音楽が有名だ。標高は2200~5000メートル級、冬には雪が2メートルは優に降り積もり、完全に閉ざされた世界となる。夏でも雨が多く降ると道が泥沼となり、四駆でないと入れない。今でも秘境中の秘境なのだ。
前回(その4)書いたが、やっとの思いで到着した宿はチビアニという村にあり、このほか3つの村と合わせた4つの村が「アッパー・スバネティ」と呼ばれる。村の一つ、ウシュグリ村は2300メートルの標高にあり、ヨーロッパで人が居住するもっとも高い村として、世界遺産となっている。『風の谷のナウシカ』の巨神兵のような石の塔が並んでおり、その建築や風俗も含めての登録だろう。
ジョージアの風景写真でよく出てくるのが、この雄大な山と石塔だ。この石塔は、アッパー・スバネティに進むとちらほらと視界に入ってきて、奥にあるウシュグリ村では立ち並ぶように増える。石や砂の割合が高そうなモルタルで、確かめていないが昔は卵を混ぜたと説明された。12世紀ごろに建てられ始め、18世紀ごろまで実際に人が住んでいたという。
大家族でひとつの塔に住み、1階部分に家畜、2階部分には多くて30人ほど、人が暮らしたそうだ。さすがに30人には狭そうだが、高さは20~25メートルほどで、2階より上には壁にいくつか穴が空けてあり、敵が来たときはここから攻撃したという。巨神兵に見えたのも、あながち的外れではないのかもしれない。
さて、到着した前夜、ご飯を食べて寝たのは夜中のことで、朝までぐっすりと眠った。宿で目を覚まして庭に出てみると、360度の山に囲まれた荘厳な景色が広がっていた。もはや、いろんなことがどうでもよくなるというもの。おいしい朝ご飯を食べて、さあ出かけよう。
道路事情を熟知している運転手が来るというから、挨拶をしたら、実は宿の主人だった。やっと会えた。大柄で明るく、流暢な英語で冗談を言う彼の案内で山を回ることになり、ここまで乗って来た日本車の中古4WDから、もっとタイヤの大きな彼の4WDへと乗り換えてえっちらおっちら山道へ。私たちの運転手、ズーラさんは荷物置き場に放り込まれたが、昨晩の働きが認められて一緒に山に行けることになり、にこにこ顔で嬉しそうだ。
車を乗り換えるだけのことはあり、前日の雨のぬかるみがひどい。しばらくその中を進んでいくと光がまばゆく射す、開けた土地に出た。広大な牧草地の斜面で牛や馬がのんびりと草を食み、小川を挟んだ対岸には集落が広がる。太陽の光がきらきらと水面や草に反射して、ひたすら綺麗だった。
川沿いに進んでいくと、ウシュグリ村のいちばん高い頂には、「タマル女王の塔」と呼ばれる大きく美しい塔がそびえ立っていた。12、13世紀にジョージアを支配し、黄金期をもたらしたタマル女王の名を冠しているのだ。
とはいえ、視界に入る姿はといえば、どうみても観光客ばかり。空き家も目立つ。たまに建つ、周りに比べれば多少は「モダン」とも言えなくもない石造りにトタンをはめ込んだような家には電気が通っていないようで、暮らすには厳しそうだ。そもそも人の気配があまりない。聞けば30年ほど前に大きな雪崩がこの地域を遅い、政府が用意した南東部の住宅に移住した住民が多いとか。雄大な景色を楽しめるとはいえ、住めるかと聞かれると多くの人が途惑う場所ではある。たまに見かける住民の服装は、豊かには見えない。
だからこそ、少し下って川べりのレストランの昼食のおいしさには驚いた。
牛を殺したのだろう、血が川のそばの一角に流れており、牛肉の調理の腕には自信があると言う。確かに、「ここで育てた牛だ」と自慢そうに出してくれた牛肉のレバー煮込みのおいしかったこと。
そして、チーズパン、ハチャプリ! ジョージア名物、ふっくらした厚めのピザとでもいうこのパンを、ここに来たら食べずに帰ることなかれ。店の釜でさっき焼き上げたばかりだというのがおいしくないわけがない。トビリシの美味しい店よりも、有名なワインを出すレストランよりも、この川っぺりの、「トイレは川です」という山小屋風レストランのハチャプリこそ、ジョージアで食べた中でいちばんの、美味で香ばしい逸品だった。
なにしろその辺に牛がいるのでチーズもフレッシュでよだれが出るようなコクの深さだ。一つだけでもお腹が膨れ、ふたつ食べればそれだけでもう大いに満腹するというのに、それぞれどんどんお代わりに伸びる手を止められない。肉入りのパン(ハチャプリはチーズ入りのものだけを指す)もあったが、人気はハチャプリ!
そういえば、第二の都市、クタイシの市場の近くの書店には、ジョージア全国の各地代表ハチャプリを紹介する本があった。写真入りな上に、なんとなく造本がハチャプリのかたちになっているかわいい一冊だった。ジョージア人のハチャプリ熱はここまで、と一同で大笑い。日本のパンブームとは比較できない骨太なものを感じさせ、尊敬の念さえわいてくる。
そうそう、この後、帰りの車中で「ハチャプリが!ハチャプリが!」とずっと叫んでいたら、ジョージアを離れるトビリシの空港に行く途中、ズーラさんがハチャプリを途中で買ってお土産に、と持たせてくれたほどだったので、私たちの興奮はそうとうなものだったのだろう。20枚(トビリシのはピザのようだった)ものハチャプリを飛行機に乗る客に持たせるというのもどうかと思ったが、気持ちをありがたくいただいた。
今思い出すだけでもよだれが出る。ハチャプリを食べに行くだけでも、ジョージアには行く甲斐があるので、次回はハチャプリの旅として再訪してもよいくらいだ。加えるなら、ヨーグルトも多種多様で、料理に大いに使われている。発酵文化をジョージアで追いかけてもおもしろい結果になるにちがいない。
すっかりハチャプリで満足した私たちを、次に宿の主人が連れて行ってくれたのは、ヨーロッパ人に大人気だというスキー場だった。夏なので雪はないが、目線を少し上げれば、斜面に雪がうっすら見えるほどの3000メートルを超える高さにあり、迫力は満点。冬場にこのスキー場でレスキュー隊員もしているという宿の主人によると、「コースアウトする人が多くて冬はとっても忙しい」そうな。コースがそのまま崖のような気もするが……もちろんこのスキー場に安全ネットはないらしい。
4時過ぎに宿に戻り、シャワーを浴びたり昼寝をしたり、夕食までの時間を思い思いにくつろぐことになり、私は中庭で本を読むことにした。トゥケマリという、キンカンのような果物を、ジョージアではソースにして料理によく使う。この木の下にある木造テーブルで、本を読む幸せときたらない。周囲は、5000メートル級の山々の絶景だ。
すると、トゥケマリの木の下のテーブルに、「座ってもいい?」と宿に泊まっているという女性がやってきた。ジョージアは初めてで、ひとりで旅してまわっているという。
「トビリシでおいしいレストランに行った?」
「スバネティは景色が美しくて、遠いけれど来てみてよかった」
「今日はスキー場に行ったけれど、冬に来てみたくなったなぁ」。
そんな情報交換と世間話で15分くらい経っただろうか、互いに打ち解けてきた。この人も旅慣れているのだろう、旅は道連れ、というやつで、この辺境に身を置いているというだけで共感できるものがある。
彼女は30代後半くらい、自己紹介をして握手をし、名前を日本語で書いてもあげた。アジア系は若く見られるから、彼女からすると同年代に思われて話しやすかったのかもしれない。
「日本から」「カナダから」
「レイチェル」「まほ」、よろしくね。
すると彼女は、意を決したかのように「日本のどこから?」と聞いてきた。
「東京。いちばん日本ではわかりやすい街でしょう」と答えると、笑いながら私たちの乗ってきた車を指さして、「あの車のことを知っている?」と聞いてくる。
「あれに乗ってきた。私たちの車だけど?」と答えると、
「ふーん。あの日本車ってどういう車か知っている? 宿に泊まっているアメリカ人に聞いたのだけど」と話し始めた。
それは、ズーラさんの会社の所有の車だ。確かに中古の日本車で、ズーラさんが「日本車の中古だから、日本人が乗ると喜ぶんだよ」と笑っていた。駐車するためバックするたびに、日本語の音声案内が流れていたのでまちがいない。
彼女が言うには、ジョージアのような国は、貧しいので海外の中古車を買う。「でも高い車は買えないから、福島で放射能を浴びた車を輸入しているんだって。本当かなぁ?」。
顔がカッと熱くなった。なんだそれは。
さすがに鼻白んで「それは確かなの? そんなことはしていないと思うけど」と返すと、彼女は「アメリカ人のいう事だからね。あの背の高い男の人、朝見なかった? 私は違うと思って、彼にはそう言ったんだけどね」と慌てて言い繕う。
「東京に行ってみたい」と話題を変えて、彼女が挨拶をして去って行った後も、世界でも有数の美しい景色を眺めながら、しばらく呆然としてそこに座っていた。そのまま山の空に黒い墨のような夜がやってきて、「ずっとここにいたの? シャワー浴びなかったの?」と声を掛けられるまでぼんやりしていた。結局、同行者のだれにも、そのことは言えないまま旅は終わりを迎えることになる。ジョージアの土地の上ではそれを言ってはいけない気がしたのだ。
日本に戻ってきた今も、このことは消化しきれないでままだ。