八巻美恵さま
東京は桜が咲き始めましたね。八巻さんのお宅の辺りはいかがですか。
私の仔犬は、我が家にやってきて4か月、生後7カ月になろうとしていますが、まだ上手に散歩ができません。車の音が怖いようで、外に連れて行ってもすぐにうずくまってしまいます。犬は散歩が好きなもの、と思い込んでいた私は戸惑うばかり。そのうち歩けるようになるさと鷹揚に構えるようにしていますが、どうなることやら。
さて、犬といえば、少し前に『犬と生きる』(辻仁成著)というエッセイ集を読みました。自分が犬の飼い主になったので、他の飼い主たちが犬と暮らしてどんなことを感じているのか、俄然興味が湧きまして。
感想は、と言うと、著者が私とあまりに違う性格なので、引いてしまったというのが正直なところ。というのも、文中、自分の犬はとびきり可愛い、まわりのひとたちからも可愛いと言われる、よって誰からも好かれている、と、しつこいほど繰り返すのです。でも、ところどころに挟まれる写真を見る限り、そこまででもないんですよね。不細工なわけではないのです。整った顔立ちではある。ただ、「うん、(普通の)ミニチュアダックスフントだね」としか思えず・・・。要するに親バカ的犬バカエッセイなのです。でも、著者はそのことに気づきながらも、「あばたもえくぼ、それがどうした!」と振り切って筆を走らせているのかもしれない。そして、全力で溺愛する自分のことも愛でているのかしれない。そこが私とは違うし、私にはそういう文章は書けないなあ、と思ったわけです。
私の犬も体が小さいので、連れて歩いていると、通りすがりのひとに「可愛いですね」とよく話しかけられます。でも、まあ、社交辞令もあるだろうと、話半分で聞き流しているし、だいたいその地域に犬が一匹しかいないならともかく、ひとが暮らす場所には大抵犬も暮らしていて、飼い主たちは皆、自分の犬を一番可愛いと思っている。もちろん私も自分の犬は可愛く見えます。でも、絶対に実物以上に可愛く見えていると思うのです。自分の目が愛情のために曇っているという自覚が私にはあります。
愛犬家は誰もが、曇りなき瞳ではなく、曇りある瞳で我が犬を眺め、我が犬を撫でまわし、我が犬とともに生きている。さらに言うなら、その曇りある瞳を持つ、愛に愚かな人々が、毎朝、リードを手に通りですれ違っているわけで、そう考えるとおかしいですね。
そして、この本をきっかけに、作家の犬エッセイを読みくらべることを思いつき、次に手にしたのが『犬と歩けば』(安岡章太郎著)。こちらのエッセイ集に登場するのは紀州犬、コンタです。
もともとは週刊雑誌連載だったようで、前半部分、コンタについての記述はそれほど多くない。毎週自分の犬ネタではもたなかったのか、友人の犬の話、生き物としての犬の話などでお茶を濁している。ところが、コンタが年をとって死ぬ後半部分からコンタへの愛が炸裂します。そして、炸裂とともに作家の底力(描写力)が見せつけられるのです。コンタの死、落胆、二度と犬は飼わないと誓う著者がキクという仔犬をもらい受けることになり、キクを育てながらコンタを想い、ところがキクの性格からキクを手放すことになり、代わりに著者のもとにハナという仔犬がやって来て、ハナを育てながらまたコンタを想う。三匹の犬の姿態と著者の心の揺れ動きが活写されていくのです。
このエッセイを読んでいるうちに、私は、私自身が、犬の魅力を、容姿ではなく、その動き、そして飼い主との関係性に見出していることに気づきました。
私が気に入った文章を二か所、抜き書きします。
《 早朝、コンタをつれて、よく多摩川べりへ出掛けた。人っ子ひとりいない河原でコンタを引き綱からはなしてやると、草原の中を真っ白いコンタが尻尾を一直線になびかせて素っ飛んで行く。そして縦横に駈けまわったあと、ふと立ちどまって主人の存在をたしかめるように、こちらを振りかえる。そんなとき私は、犬というより〝友情〟そのものが、朝靄に包まれてそこに立っているように思ったものだ。
また、晩秋から初冬にかけて、川べりにそって霜の下りた枯草の間をコンタと一緒に歩いて行くと、半分氷のはった薄暗い河面から不意に驟雨のような羽音が伝って、飛び立った雁の群れが一瞬、空を黒い斑点で覆ってしまう。そんなとき凝然と立ちどまったコンタの全身に、野生の血の騒ぐのが引き綱をひいた私の体にまでかよってきて、何か狩猟で暮らしを立てていた昔の人の呼び声がきこえてくるようでもあった。》
《 コンタは決して学者犬のように利口なところはなく、またテレビ・ドラマに出てくる名犬某のような能力は一度として発揮したことはなかった。(中略)コンタがすぐれていたのは、ただ自然なかたちの生きものとして優秀な存在であったという他にない。そして私は、そういうコンタを見ていると、何となく慰められたり、はげまされたりして、生きているということは有難いことだという気がしてきたのである。》
折角なので、私の中の新ジャンル、「犬エッセイ」は今後も開拓していこうと思います。八巻さんも、もし、お勧めの犬エッセイ集があれば教えてください。
最後に私の犬の名ですが、ブリーダー宅ではちーちゃんと呼ばれていたそうですが、我が家に来てロンとなりました。ちなみに血統書に記載された本名はエメラルドです。
二回続けて犬の話ですみません!
2025年3月31日
長谷部千彩