クアラルンプールから友人の車でイポーという町に向かうことになった。「途中のカムパーという町に巨大なカレーパンを食べさせる店があるんだけど」と友人が言う。「何それ、行く!」カレーパンは大好きである。「華人の店?」「うん、そう」中国系のレストランで、どんな巨大カレーパンが出て来るのか、とても楽しみだ。そこで昼食をとることにする。
KL(クアラルンプール)から2時間余り。ちょうど華人の正月、春節の只中なのでKL市内は空いていたが、高速道路は帰省する車で少し混み合っている。とはいっても日本のお盆やゴールデンウィークとは比べ物にならないが、まあ日本の方が異常だろう。
カムパーの游記酒楼という店に入ると、客はみんなその名物だという巨大カレーパンを食べているようす。さっそく注文すると、あっという間に出てきた。つややかに茶色く光るそのカレーパンは、ふつうのカレーパンの・・10倍以上の大きさである。でかいよ・・。揚げてあるのではなく、大きなオーブンで焼いてあるものだ。
持って来てくれたおばちゃんが、パンにサクサクとナイフを入れ、切り開いていく。ああ、かぶりつくわけじゃないのね。まず真ん中を一文字に切り、今度は横に5センチ間隔ぐらいで切り込みを入れて上部を切り広げると、ワックスペーパーに包まれた鶏肉のカレーが出てきた。
日本のカレーパンのように、水気を無くしたカレーでなく、汁けたっぷりのチキンカレーがどーんと豪快に仕込まれていた。チキンもぶつ切りにしてあるとはいえ、おそらく半身分はあるだろう。じゃがいもが数切れ。まわりのパンをちぎって、さっそくカレーをつけていただく。「うん、おいしい・・けどパンがすごく甘い・・」カレーはなかなかおいしいのだが、このパンの甘さが苦痛である。パンだけで食べれば、焼きたてのふわふわで甘い菓子パン。それなりにおいしい。で、これをチキンカレーにつけて一緒に食べるのは、ちょっと違和感がある。マレーシア華人はこの甘さがいいのか・・な。
中身のチキンカレーは、日本のとろみのあるカレーとも、インドカレーとも微妙に違う。インドカレーに近いとはいえ、何か中華ふうな気配がする。スパイス使いに、どこか中華好みが混じっているのだろう。中華の山椒の花椒や、豆板醤? はたまた中華のスパイスミックスの五香粉か?
「え〜っと、ご飯もらおうっか」「いいね」ということで、最後はカレーパンの中身の中華チキンカレーを白飯にかけてライスカレーにして食べる我ら日本人。パンは半分ぐらい残してしまった。カレーパンを3人で食べている間にも厨房からはどんどん焼き上がったカレーパンが運ばれていく。持ち帰りの客もどんどん来るし、店は大流行りだ。
マレーシアの華人の料理にはカレーを使ったものが何種類かあり、日常的によく食べられている。カリーミーというカレースープの汁麺。魚の頭のカレー煮込。いわゆるチキンやマトンのカレー。それらはマレーシアのインド系、マレー系の料理とよく似ている。似ているのだが、やはりどちらも微妙にスパイスが中華系、ダシが中華系なのである。
日本の家庭で愛されているカレーライスは、インド人からすれば「インド風スパイススープのあんかけご飯」とでもいうものだろう。ご存知の方も多いと思うが、小麦粉でとろみをつけたカレーはインドから伝わったのでなくイギリスから伝わったものだ。インドではカレーという料理はなく、スパイスを素材に合わせて調合を変えて味付けする。とろみも基本的につけない。イギリス人がインド料理の一部分を抜き出して万能スパイスミックスとして作ったものがいわゆるカレー粉だ。鶏肉などをそれで炒めて最後に水溶き小麦粉を加えて、とろみのついたソースに仕立てるのがイギリス風のカレーである。
そして、そのカレー粉が日本でまた独自に進化を遂げて、脂分ととろみの小麦粉を加えて固められ、ジャワカレーだの、ハウスのリンゴとはちみつ入りカレーだの、星の王子様だののカレールーになった。この固形カレールーを使って作る日本カレーは、野菜や肉を入れたスープにとろみをつけた状態のもので、かなりの水分量だ。
マレーシアには華人と呼ばれる中国人たちが人口の3割ぐらい住んでいる。華人には、ふたつの大きな系統があって、15世紀の明の時代に移住してきた福建出身者を中心とする貿易商人たちの末裔と19世紀初めのスズ鉱山の開発にイギリス人に集められた広東や客家出身者を中心とする肉体労働者たちの末裔である。
数でいえば圧倒的多数の鉱山労働者たちは、鉱山や貿易港の周辺などで華人の町を作り、集まって住んで自分たちの中華文化を守り続けて今に至っている。これから行こうとしているイポーもカレーパンを食べたカムパーもそういう華人の町である。かれらはタイなどの周辺国の華人に比べると、中国人としての文化を相当維持していて、本土の現代中国ではもう失われた古き良き中華文化を残している。マレーシアに生まれ育ったのに中国語しかしゃべれない華人も多い。毎日食べているのは出身地の中華料理である。インド料理やマレー料理は基本的に食べない。文化は辺境に行くほど古い形が残される、という説があるが、まさに共産革命以前の漢民族の中華文化は元の中国から遠く離れたこの地でひっそりと保守されている。
それでも、いつのまにかインドやマレーの料理が姿を変えてマレーシア華人の食卓に上がっている。それがカレー系の料理である。そしてそのカレーには五香粉などの中華スパイスがこっそり加わっている。日本人が、刺激的なカレーの料理をマイルドにしてあんかけご飯スタイルに工夫して受け入れたように、華人もカレーに中華料理のスパイスを加えて、インドやマレーの料理をわずかに受け入れて楽しんでいるのだった。保守的だけど、ちょっぴり革新。そうして辺境で文化は生き残っていくのかもしれない。
イポーの町に着いて、永成茶室というひなびた店でまったりとギネスを飲みながらそんなことをぼんやり思う。百年と五年経つというこの店には沢山の種類のビールと量り売りのウイスキーが置いてあり、地元の華人とインド系の酒飲みたちがひっきりなしにやってくる。華人の喫茶店である茶室にインド系のおっさんが来るというのも珍しい。真っ黒な肌のこわもてのおっさんが店の猫を膝に置いてウイスキーをゆっくり飲んでいる。目が合うとおっさんはニタリ、と笑った。