アジアのごはん(43)納豆

森下ヒバリ

タイのバンコクに来ている。乾季だというのに、毎日のように雨が降っているのは、いったいどうしたことだろう。去年も、乾季が終わらないうち から雨がたくさん降り始め、雨季の雨の全体量が増えて、川の水が増え近年にない洪水が起きた。この調子では、今年の秋も、いやそれ以前にまた タイ中部は洪水になってしまうかもしれない。杞憂で終わればいいのだが。

今回の旅には初めて、たくさんの納豆を持参してみた。いつも、インスタント味噌汁は持ってくるが、さらに梅干一袋、納豆6パック、しょうゆの 小瓶、出しの素、アオサと乾燥わかめ、さらに秋刀魚の蒲焼き缶詰6個、ニシンの甘煮2袋、マヨネーズにインスタントラーメンまでリュックに入 れて来た。ここ1年ぐらい、旅先で外食ばかりの食生活に苦痛を覚えるようになってきているので、がまんはせずに時々日本食を食べようと思って いる。ときどきおいしい日本食を食べると身体も心も落ち着くのだ。

というわけで、タイに来て3日目にして、すでに納豆ライスを食してしまった。納豆はたくさんあるし、と軽い気持ちでご飯に乗せて梅干と食べた が、これがまたおいしいのなんのって。日本人でよかったな、などと呟いてはみるものの、実は納豆をちゃんと食べたのは、二十歳になってからで ある。ヒバリが育った岡山の家では、納豆を食べる習慣はなかった。一度だけ「これが納豆というものらしいよ」とおそるおそる食卓に乗せられた ことがあるが、食べ方もよくわからないからかき混ぜもせず、そのまま上から醤油をかけただけ。「なんじゃこりゃ」というのがそのときの家族全 員の感想で、それ以降、納豆が食卓にのることは二度となかった。今でも両親はまったく納豆を食べない。

関西もあまり納豆を食べない地域だが、当時でもスーパーなどで売られてはいた。大学で京都に来て、大阪の友人宅に遊びに行ったときに初めてき ちんとかき混ぜられ、ねぎとからしを混ぜた納豆をごちそうになったのである。出されたものの、どうも気が進まない。「おいしいから!」という 料理上手な友人の言葉に意を決して口に入れてみると、なんとも美味。「これが納豆!?」それから、ちゃんと丁寧にかき混ぜ、ねぎとからしを添 えて食べております。

納豆は、日本に固有の食べ物と思われがちだが、じつはタイにもラオスにもビルマ、インドにもある。もちろん、日系スーパーにある日本製の納豆の話ではない。

タイ北部の納豆は、トゥアナオといい、大きく分けて二種類ある。一番ポピュラーなのは納豆菌で発酵させた大豆をすりつぶしてペーストにし、薄いせんべい上にして乾燥させたもの。乾物屋で積み重ねて売っていて、スープの味付けに味噌のように使う。知っていなければ、納豆とは分からない。

もう一種類は納豆菌で発酵させた大豆に塩やナンプラー、唐辛子で味をつけ、浜納豆のようにしっとりした状態でまとめたものである。こちらは、そのままご飯のおかずや酒のつまみに食べることもできるが、かなりしょっぱい。やはり、煮物や野菜炒めの調味料として使うことが多い。

どちらも、タイ族の食べ物であるが、中華系タイ人の多い中部やマレー系の多い南部では食べない。ラオスでも北部でほぼ同じものを食べる。

ビルマ、インド東北部の納豆は、日本の納豆に近いタイプだ。インドの東北部ヒマラヤを仰ぐダージリンにはじめて行ったときのこと。市場で、おばちゃんが木の葉っぱに包んだ納豆のようなものを売っているのをみつけた。ただの煮豆ではなさそうだった。さっそく買ってみた。かすかに納豆の匂いがする。しょうゆはなかったので、塩をかけて食べてみた。かき混ぜてもあまりねばらないが、味は日本の納豆によく似ている。
「あ、納豆だよ、これ。けっこういける!ねえねえ食べてみて」
「え、いや、これ腐ってんちゃうの?」
日本では大の納豆好きな同居人は及び腰である。
「発酵だよ!」

ダージリンで入手した「HIMAYALAN RECIPES」というブックレットによると、このダージリン納豆はキナマと呼ばれ、このあたりの山岳民族やネパール系住民が食べるという。

キナマの作り方はこうだ。1キロの大豆をよく洗い一晩水につける。圧力鍋で軟らかくなるまで煮る。ここで、つぶしてもつぶさなくてもいい。それをきれいな葉っぱに包み、かごに入れ布をかけて5日間放置し、ねばりが出れば出来上がり。カレーに入れたり、揚げて食べたりする。市場で買った納豆も、2日ほどおいておいたら納豆のいい匂いがしてきたので、発酵が浅かったのかもしれない。ねばりはあまりない。

このあたりの山岳民族は、タイ族系やチベットビルマ語族系の人々で、雲南あたりからタイ、ラオス北部、ビルマにかけて居住する人々とほぼ同じ系列の民族である。雲南を中心とする照葉樹林文化の民族だ。日本も海を隔てているとはいえ、気候風土はこの照葉樹林文化に属する。納豆文化圏なのだった。

納豆が発酵するには、納豆菌が必要だが、納豆菌は日本の場合どこにでもいる。稲わらには特に多いので稲わらで包んで納豆を作っていた。ダージリンの納豆はきれいな葉っぱに包む、とあるのでここにも納豆菌はたくさんいるようだ。

ちなみにインドネシアには、大豆を煮てクモノスカビで発酵させたテンペという食べ物があるが、風味は納豆とはかなり違う。まったくねばりはない。これは揚げて食べたり、煮込みに入れたりする。あっさりした味だ。納豆とはいえないだろう。

お正月に、タイ北部のチェンマイに住んでいるタイ人の友人トクが京都にやってきた。日本に帰っている妻と4歳の娘に会いに来たのだ。一緒に飲んでいると「ココロちゃん(娘)は毎日納豆を食べてるよ。すごく好きみたいで」と、何か複雑そうな顔。
「チェンマイでも納豆あるでしょ?」
「いや、あの、日本のは匂いがきついし、あのねばりが気持ち悪くて」と、トクさん。
「ええ、日本の納豆おいしいよ!」

さっそく居酒屋のメニューを探して納豆を注文する。ただし、匂いがあまり気にならない「納豆包み揚げ」にしておいた。お揚げに入って出てくるかと思ったら、出てきたのは餃子の皮に包んで揚げたものであった。
「うん、おいしいね。これなら大丈夫」とトクさんパクパク。

納豆は大豆の何倍も消化がよく、栄養も豊富。また血液をさらさらにするナットウキナーゼという成分も豊富だ。腸内環境を整える力も強く、食べ過ぎやおなかの調子の悪いとき、またちょっと危ないかな、というものを食べた後にも納豆を食べておくといいという。旅の道連れに納豆、というのはこれからクセになるかも。