三里塚で小泉よねさん、通称、大木よねさんの養子に夫婦二人でなって、有機農業を始めた頃、鶴見俊輔さんが、ぼくのことを書いてくれて、その中にこういう言葉がありました。
「農業そのものの中には非暴力の精神の根をおろす場所があるように思う」(『鶴見俊輔集8私の地平線の上に』筑摩書房)
その言葉を見て、なるほどと思いながら、当時はそんなに気にとめませんでした。
その言葉を強く意識するようになったのは、1997年から始めた循環農場からです。外国からの輸入穀物に頼らない有機農業、牛糞や鶏糞を使わない、ビニールやポリフィルムを使わない、タネも自家採種をめざす、たどり着いたのは、里山で落ち葉を集め、米ぬかを発酵させて肥料を作るなどの方法でした。そのような取り組みをぼくは、非暴力農業とも呼びました。
ベトナム反戦運動でも、成田の空港反対運動でも、個人的にはずっと、ぼくは非暴力を貫きました。でも、激しい反対運動の中で、非暴力という言葉を発しないでいました。その後、二つの反対同盟と距離を置くようになり、更に、循環型の非暴力農業を始めて、再び、非暴力の意味を問うようになりました。
どうして自分は非暴力という方法を選んだのか? たどり着いたのが、日本国憲法でした。ぼくは、1948年生まれの戦後世代です。それ以前の暗黒の時代を知れば知るほど、憲法の素晴らしさを歓喜をともなって感じた世代です。戦争を放棄して、平和外交で争いを防いで行く、なんて勇気ある決断だろうと思いました。ぼくにとって憲法は、非暴力の精神のみなもとだったのだと気付きました。
その憲法、そのものが危機にひんしている。安保法制の強行採決、自民党の憲法草案、不安材料ばかりです。それにどう向き合うか。なかなか答えが出ませんでした。そんな中、もう一度、非暴力について考えました。非暴力は、権力を強いる者への抵抗の手段です。反対と言う言葉が枕につきます。でも、非暴力を農業にまで拡げて考えると、非暴力は肯定とか、創造とかの概念と近寄ります。そこで、これだ!と思いました。
憲法の危機に、憲法肯定で向き合おう! 憲法いいね! 変える必要ないね!
憲法いいねの会、出発時は、憲法肯定デモってどうだろうの会と言ってました。まだ生まれて、10ヶ月ほどで、よちよち歩き状態です。循環農場の会員の有志の方々、野菜を売ってくれるエコロジーショップの有志の方々、ぼくの知人の方々、まだ小さなグループです。昨年、6月に、この会場半分のスペースで「憲法このままでいいね!」と集いを行いました。参加者は約50名ほどでした。ガイアの女性たちが頑張ってくれました。
今日は2回目の集まりになります。倍のスペースに100名来ていただけるよう、知恵をしぼって、企画を立てました。(実際はどうだろう?)
1回目の集いの後に、参議院選挙があって、改憲勢力が3分の2を獲得し、その後、国会で憲法審査会が開かれています。自民党の憲法審査会部門では、緊急事態条項の検討に入ったと報道されています。沖縄では高江で、オスプレーの訓練を行うヘリパッドの工事が強行され、辺野古の海でも埋め立ての工事が着手されました。
アメリカではトランプ政権が発足し、世界的にも、「自国主義」の動きが活発化しています。緊張を緩和し、融和を目指すのではなく、自分たちの利益の為には、相手をののしる醜い政治手法が幅を利かせています。憎しみの連鎖、脅威の連鎖、軍備の増強、際限がありません。おたがいが、たがいを脅威だとして、自国の国民に危機感を煽りながら、互いの軍備増強に役立てている様にも見えます。
そんな時、「憲法いいね!」の声を上げるのは、時代の空気を読めないかのように受け取られるかも知れません。「許さないぞ!」との強い抗議の声を上げるべきだと言われそうです。その抗議の声を否定する気持ちは、全くありません。しかし、憲法いいねの会は、敢えて、足元から出発しようと考えています。
国民の反応はどうどうでしょう。安倍政権を支持する人は、50%を越えています。人々は憲法についても多くを語りません。自由に発言することをためらい、萎縮しています。自民党の憲法草案にハッキリと示されているように、改憲を主張する人達は、国民の自由や権利より国を第一に重んじようと考えています。憲法が変わると法律も変わります。戦前に逆行しかねません。
成田の駅頭で、この間、3回チラシを蒔きました。受け取ってくれる人は、10人から20人に一人ほど、みんな足ばやに通り過ぎて行きます。特に高校生は受け取りません。そういう状態、土に例えれば、ガチガチに堅く固まった状態に見えます。或いは、砂漠の様な印象を受けます。そういう大地に、いわば半分しおれかかった憲法を生き生きと蘇らせるのは、たやすい事ではありません。「憲法いいね!を耕す」とはそういう作業を智恵と力を寄せあってやってみようとの呼びかけです。
堅い大地を豊かにすることは、一朝一夕では成し得ません。肯定という考え、対話という方法、非暴力という形、丁寧な作業、芯の強いこころざしが必要です。それでは具体的にどうするのか。まず、それぞれが「私の憲法」をもつことだと思います。
この言葉は、『朝日新聞』1998年2月2日〜5日まで4回連続して掲載された鶴見俊輔さんの談話、鶴見俊輔の世界(3)私の憲法 国民投票を恐れないで(2月4日号)で見つけました。鶴見さんは当時53歳でした。その中で次のように語っています。
「私の憲法」をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい。書いたらだめですよ。知識人の欺瞞性はそこから発するんだ。いろんな「私の憲法」に支えられるような憲法になれば、欺瞞性やはりぼては薄くなる。
欺瞞性やはりぼてとは何なのか? 鶴見さんはこう言います。
戦前も議会や裁判所があり、法律もあったのに、軍国主義に利用されて戦争を推進した。それが戦後になって「自分は民主主義者だ」とか「戦争に反対していた」などと言い始めたが、そういえるのは獄中にいたわずか数人だけだ。それ以外の人がいくら護憲と叫んでも、はりぼてなんだ。
「私の憲法」をもつこと、個人の信念に支えられた「私の憲法」、それを、それぞれもちませんか。時流に流されない、時の政権に操作されない「私の憲法」、とても大事だと思います。
野菜の箱に入れている会員向けのチラシに、「憲法肯定デモってどうだろう」と「憲法肯定を紡ぐ」という文章を書きましたが、それは、結果的には、期せずして、自分の憲法を探ろうとした作業だったと言えます。1度目の集まりを持ってから、この先この会をどう継続していくのか迷いました。一度、肯定デモを行って見ようかとも思いました。しかし、ほんの少数の人数になりそうだし、そのデモのスタイルも、従来のものに新しさを加えるような発想は出て来なくて、さてどうしょうと言う時に、この言葉に出会い、救われました。ひとりひとりが、それぞれ、自分が生きて来た過程を振り返って、自分の足元をまさぐって、「私の憲法」をもつこと、それが大事だと思います。
ぼくは、東京でこの憲法いいねの会の準備と並行して、地元、成田では、成田平和映画祭実行委員会に参加してまして、丁度1週間前に沖縄のドキュメンタリー映画『標的の村』の自主上映会を、成田の市民運動の人たちや有志の人達と力を合わせ、開催しました。そして、予想を上回る300人の観客を集めることができました。
映画は、とても衝撃的で、ゲストでお呼びした三上智恵監督の話もとても具体的で、高江にしても辺野古にしても、負担の軽減どころか、米軍基地の強化を狙ったもので、そのことによって、沖縄はまた戦争に巻き込まれる事になると話されてました。
アメリカ軍は、日本を守ってくれないんですよ。どうして日本のためにアメリカの若い兵士が血を流さなければならないのですか。アメリカ軍は自国の利益の為に、日本に駐留しているんです。映画、監督の話共々とても感動的で、上映会を企画してとても良かったと思いました。
観客のアンケート回収率60%、そのうち感想を書いてくれた人77%、その人たちとどうつながっていかれるか、きちんと考えなければと思っています。知人にチケットを勧める時、久しぶりの人には、時間があれば、「私」を語りました。最近、肯定と言う考えに至ったこと、その姿勢で、再び、世の中と関わろうとしている事などを話しました。それは、共感を得たと感じています。
成田と東京と、二つの市民運動に関わる事によって、一つの運動のタコツボにはまらずに、双方から刺激を受けていると言うことも感じています。
「私の憲法」をもち、それを軸にして、周りの人たちに「私」を語る。憲法を語る。その連鎖反応として、平和を考えるグループが生まれる。出入り自由なゆるやかな集まりです。そういうグループがあちこちに育つことを望みます。名乗りを上げなくていいんです。それぞれをつなげるのは信頼です。信頼を維持し合うのは難しいことです。自分を率直に出すことが大切だと思います。
次に目指すもの、まだ個人的な意見ですが、「憲法いいね!をひろげる集い」をやりたいと思っています。
友人からメールで、電車の中吊りにこんな広告があったと知らされました。
渋谷陽一責任編集「SIGHT」70年間戦争しなかった日本にYESと言いたい
調べてみると、渋谷陽一さんは音楽評論家、ロッキング・オン・ジャパンの編集・発行人とある。東京に出た時に手に入れ、早速読んで見ました。
「僕はこのSIGHTで、今の日本に必要なのは肯定的なメッセージであると何度も書いてきた。YESというメッセージがないと人は前に進めないと書いてきた」
「今、僕たちが行うべきは、この戦後70年の平和主義を思想化することだ」
多くは披露できませんが、まだ手に入ると思いますので、是非読んでみて下さい。共感できるところが沢山あると思います。渋谷さんに手紙を出しました。そのうちお会いしたいと。
今日も沢山の方々の参加をいただきました。そのうち、皆さんの御協力を得て、憲法肯定の動き、憲法いいね!憲法YES!、変える必要ないね!の動きを世の中伝える大きな集会を開きたいと考えています。
音楽やアートや詩を交え!今日もこの後、歌と詩の朗読があります。楽しみです。
鶴見俊輔さんから学ぶこと
僕にとって鶴見さんは、最も信頼を寄せていた人、一緒にすわり込んだ時から47年の年月の節々で、励まされ、前に進む言葉を示してくれた大事な人です。最初に会ったのは、1967年、すわり込みの現場です。ぼくが19歳、鶴見さんは45歳でした。最後に会ったのは、2011年、原発事故のあと京都のご自宅に、かって、共にすわり込んだ仲間たちとお見舞いを兼ねてお邪魔しました。ぼくが62歳、鶴見さんは88歳になられていました。思い出されることは多々ありますが、どれをとっても穏やかな時間が流れています。
鶴見さんとのエピソードはいろいろあるのですが、今日はその時間がありません。そのうち、今日とは逆に、黒川さんにぼくが呼ばれて、鶴見さんとすわり込みの運動について、話さなければならない時が用意されるようなので、その時にします。
憲法いいね! を耕すことを、先ほど土を耕すことに例えました。我が家、循環農場では、野菜を育てるのに、落ち葉の堆肥と米ぬかの発酵肥料を使っています。落ち葉堆肥はじっくり土を豊かにする働きがあります。発酵肥料は、直ぐその作物に効きます。鶴見さんは、落ち葉堆肥だと思います。堆肥も材料によって色々です。例えば、稲わらの堆肥は土の中で短期間に分解されます。一方、落ち葉の堆肥は分解がゆっくりで時間をかけて、土の状態を改良します。鶴見さんの言葉は噛み応えがあります。地味豊か、滋養に富んでいます。
鶴見さんは2015年7月20日に亡くなりました。93歳でした。鶴見さんに学ぶこと、それはとても、一言、二言では語れません。鶴見さんの本は沢山出ています。今日もSUREの本が販売されています。是非、読んで頂きたいと思います。ぼくが思うには、鶴見さんは、非暴力直接行動に生きた人だと思います。その原点は、鶴見さんの戦争体験にあります。
引用するのは、「『不逞老人』鶴見俊輔」(ききて 黒川創、河出書房新社)からですが、その中で鶴見さんはこう述べています。
「海軍のドイツ語通訳になって、ドイツの基地があったジャワにいたときに、違法に捕虜にしていた中立国ポルトガル領ゴア出身の民間人を殺せという指令が、私のすぐ隣の軍属に下った」
「もしも、あのとき、自分が捕虜たちの通訳をつとめて、しかも、その相手を射殺することまで命令されたら、自分はどうしたか。それはずっと私自身の問題になって、戦争が終わってからも自分の問題として続きました」
そのことについて、他の本(『身ぶりとしての抵抗』鶴見俊輔コレクション2)でこう述べています。
「第二次世界大戦での日本の立場が正しい思ったことはなく、日本が負ける以外の終末を考えることはできなかったが、同時に、戦争反対のための何らの行動もおこすことはしなかった」
なぜか?
「しようと思うのだが、指一本上がらなかった」
「この前の戦争当時のようなひどい時代になると、もう一度、ああいうふうに、体がすくんでしまうのではないかという恐怖感をぬぐいさることはできない」
どうしてか?
「そういう行動の起動力となる精神のバネが欠けていた」
「それは、知識の構造に欠けたところがあるためでなく、肉体の反射の問題だ。思想という言葉を知識だけでなく、感覚と行動とをもつつむ大きな区画としてとらえるならば、それは思想の問題だ」と述べています。
また、非暴力直接行動についてこう述べている。「私としてはこうしないと、自分の同一性が失われると思うからこういう行動をとる」と。
鶴見さんは1960年、日米安保条約の強行採決に抗議して、東京工業大学助教授を辞職しました。その後、同志社大学の教授になるのですが、1970年、大学紛争で教授会が構内に機動隊を導入したことに抗議して辞職します。その少し前、1965年、ベ平連結成、翌年、アメリカ軍のハノイハイフォン爆撃に抗議して、アメリカ大使館前にすわり込み、1967年にはアメリカ軍の空母、イントレピット号からの脱走兵を受け入れ、脱走兵援助組織、ジャテックを作るなど精力的に活動しました。
まさに、知識と感覚と行動をもって、戦争に対して指一本あげられなかった体験と向き合いながら、自分の同一性を保とうとした人生だったと思います。今、憲法の危機を前にして、焦らず、丁寧に、人々と交わり、憲法十二条に書いてあるように、自由と権利を守るために不断の努力をしょうとする時、鶴見さんの残した言葉と行いは、とても貴重なものだと考えています。
今日は、鶴見さんととても親しい関係で、一緒に仕事に取り組まれた黒川創さんをお招きしました。黒川さんの話、楽しみです。
こんなところでぼくの話は終わりです。
ありがとうございました。