自分を見つめる詩(若かりしころに書いたものから)

小泉英政

  土ふまず

草むらで
蝸牛は
眠っていたのか
這いうごいていたのか
まさに死にかけていたのか
それは さほど

私の足どりは
酔っていたのか
浮かれていたのか
つまずいたのか
それも さほど

とにかくあの感触
どす黒い体液が滲みついて知った
土ふまず

(これも18歳ころの詩だ。そのころのを読み返すと、もがいているというか、何にあんなに悩んでいたのだろうと思う。古い本をめくっていると、今は亡き思想家の埴谷雄高さんのこんな言葉に出会った。20歳のころになると「自分が自分を自分のなかから生みだす一種の純粋生誕に達してしまおうと努力することになる」、「栄光の生誕であるとともに、また、苦悩の生誕でもある」(埴谷雄高、『薄明のなかの思想』筑摩書房)。なるほどと思った。)

  参加の断章

誰も私を無罪にはしない
このとばりの裏で誤謬をつついている
(曇り硝子を装う未来人)
既に石化
常に葬儀
受難の悲劇
翔天も
潜行も
蜃気楼と
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
しかし俺に影を落とさせるこの太陽の位置のもと
(限界内での挑戦)に汗ばんだ挑戦をはじめたぞ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!

すれちがいの享楽の巷で
自由をとりちがえた蟹らと会いました
「甲羅に宣伝ポスターも貼りました
ここに私がいますと貼りました
さて、照明ある場所へ参りましょう」
ー不条理からの横あるき
動く銅像
ペシミズムの波打ちぎわ
蟹らの眼鏡には
空は空、海は海、蟹は蟹

ひなた水は
蛙たちが愛しあうところ
あとは夜
夜は泣く
泣くこともやめた夜
ひなた水はさえ枯れてしまった
ただ奈落への安楽死

川底には密閉した蝙蝠らの巣窟
いまや歪曲した黄昏なのに
口や耳を塞いだまま
ひょんな手つきで
バイブルの扉を磨くだけ
それが証
似非聖者の頽廃した感情の

充分だ
涙もろい感覚の夜空に痛くとけこんで
私を泣かすには これだけで充分
ーただ一枚のフォトグラフ
あなたの崩れた焼身にへばりつく仏の死
そしてあなたの周りで祈る少女の
とかし忘れた長い髪 四方の蝋燭
これだけで充分だ!
涙もろい私を泣かすには
ーただ一枚のフォトグラフ

私には負傷した友を運ぶことも
自殺をとめることも出来ない
けれども!
あなた達の血みどろの衣服!
血の涙!
それらの全てが私のものだ!

腐敗しつづける幾千万の屍体の上で
鳴っているシグナルの音が
誰にも聞こえないなんて

なべて背後には氷河が白んでおり
産婆様のの魂がもはや届かぬところで凍っており
その脊髄を冷たい寂寥が縫っている
そこからほとばしる選択の汗水!
その流れが現代なのだ!
参加だ!
現代への参加だ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!

(これも高校2年生のころの作品で、高文連の大会に提出したもの。ベトナム戦争反対を抽象的に訴えた。)

  フユノハエ

ナニ ニゲダシタイヨウナ カッコウヲシテイルダケサ
イテツク オモテデワ
タエテユケソウモナイコトヲ
チャント シッテイルカラ
アタタカイコノヘヤカラハ ニゲヤシナイヨ
アンシンヲ シロ

アノハバタキモ アシノユスリモ
ダマッテイテハ ツマラナイカラダケサ
ナニ ニゲダシタイヨウナ
シグサヲ シテイルダケサ

フユノヒザシガ
シバレヲトカシタ トキニダケ
ミセカケヲ シテイルダケサ
エンジテイルダケナノサ
アンシンヲ シロ

(冬のある日、高校の窓ガラスの所でハエが飛んだり、止まったりしていたのを見て、思いついた詩だ。自嘲的に書いたのか、人のことを書いたのか、忘れてしまった。)

  すわりこむと

すわりこむと
ごみがよくみえる

すわりこむことは
ごみの低さに
ちかづくことだ

  

この手はもぎ取られたのに
もぎ取られた手はもぎ取りに上陸する
17度線に駐屯中
貧弱な胸に引き金をひいたり
捕虜の耳を剃りアルコール漬
この手が私の手だ
空襲の中のちぎれた手も
その爆撃のボタンを押したのもこの手であるとしたら
人差し指ほど罪ある指はない
けれど人差し指がなかったら
〈簡単だ、4本指の父は中指で的を狙っている〉

この指先には父母たちのような跡がない
土を掻いた記憶も、銃を握った記憶も
だが誰にも言わせないぞ
あなたは幸福だねとは
離陸してゆく兵器をとめられない
この無力に耐え闘わなければならないからだ
再び言わせないぞ 幸福だねとは

茶の間に残虐なフィルムがながれても
ある聴視者には回想にすぎず
ある者には単なる戦争映画にすぎず
報道までも快感となる事実

けれどもあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ

そして時には我々の手は
今日も泥沼に幾人かの同国人が埋もれたのに
顔には勝利の笑いがある
指揮官らの肉づきのよいやさしい手でもあるのだ
見たことあるその手を
脳のなかの尺取虫にかどわかされて
ダイヤの指輪をはめている
見たことあるその手を あなたのその手を

けれど再びあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ それどころか!
みみずを刺している釣り針だ!

(この詩には、日付けはないが、20歳前のものだろう。若かりしころの自分を責め、人を責める詩はこの他にも沢山あるが、発表するのはこれまでとしたい。あと二篇ほど、出してもいいのがあるが、長すぎる。次は三里塚の詩に移りたい。詩をここに載せるのは、詩集のための準備だが、陽の目を見るかな?)