私たちはどこへ行くのか(2)――増え続ける私的で合理的な殺人

石田秀実

合理的殺人という言葉で想起されるのは、通常は国家権力の暴力だ。死刑や優生学的断種、あるいは20世紀を特徴づけ、この21世紀をも印し付けようとしている戦争という合理化された殺人行為や、さまざまな国家権力による大量虐殺について想い起こしてみよう。誰もが知っているように、そのような合理化された殺人は、21世紀に向かって、減少するどころか増え続けている。

ここで合理的と言う言葉で指し示されている事柄は、「善き行為」とはとりあえず無縁である。たとえばそれが数学であれば、合理的であることは間違いなく「善き行為」であったかもしれない。だが、21世紀の国家にあって、合理的であることは、たいていの場合、「非人間的だが、合理的な行為」であるような事柄を指し示す言葉である。

なにもことさらに、20世紀のナチスや21世紀の米国のみを想起する必要はない。民主的を標榜するあらゆる近代国民国家(帝国やブルジョワ民主主義を標榜する国から、人民民主を名乗る国まで)にあって、合理的という言葉で指し示されるのは、経済的合理性からさまざまな生業の合理化、国家権力による合理的殺人まで、一人ひとりの人間の生や、人と人のつながりを破壊する行為である。

もともとあった共同体を壊してばらばらの個に作りあげ、その上でまたそれを国民=国家と言う擬似共同体に纏め上げたのが近代国民国家であることを思い返そう。そこでは生まれたことに伴ってもともとあったはずの、人と人のつながりを破壊することと、一人ひとりの人間のかけがえのない生を破壊して国家と言う擬似共同体に奉仕させることとは、ひとつの出来事であった。合理的に行為することは、人を孤立させた上で、ありもしない幻想の中に纏め上げることと結びついている。

翻って、では私たちの側は、こうした国家権力による合理的殺人のような行為と、いつも無縁なのだろうか。残念ながら、少し胸に手を置いて考えれば、そんなことはない、と誰もが思わざるを得ないだろう。たとえば私たちは、中絶や間引きという合理的殺人を、はるか昔から行ってきた。殺されていく子を神に祭り上げたり、あるいは逆に人間ですらないとみなしたり、その合理化の方法は様々でも、それが合理的殺人であるという事実は変わりようがない。合理化の方法の基底に、擬似的共同体から排除される他者の異類化という、国家権力が行う大量虐殺や被実験動物化でもおなじみの心的機制が用いられ続けたのも、よく知られた事実である。

近年では、出生前診断による選択的中絶や、パーソン論を援用した絶対的中絶や嬰児殺しを容認する形で、合理的殺人は、疑似科学的に語られるようになってきた。普通私たちの生は、この世に生まれでて、今ここに在ることそのことがそのまま善である。だが、障害者や遺伝的劣性とみなされる生は、在ることそのものを嘉されるどころか、生まれる前に科学的とされるやり方で選別され、消されてしまう。

生死のあらゆる事柄を、あらかじめコントロールできると思い込んでしまった私たちの欲望は、すでに生きて在る私たちの側の都合で行う生の選択=差別を、当然の権利と考えるようになったのだ。考えた末のやむにやまれぬ選択ではなく、あくまでも疑似科学的で合理的な選択として。これから生まれ出でる者たちに先立って、今既に在るというだけで、私たちはいつから、そんな権力を持っていると思い込でしまえるようになったのだろう。胎児法のような形で、それを合法化する国も増えてきた。

そこでは今生きている障害者は、表立っては尊重され、福祉の対象になっていても、実は新しい優生学の監視網から、たまたま漏れて生まれてしまった異類に過ぎない。障害者達は、あくまで合理的排除の失敗例として、いわば誤ってそこに在る。

ヒューマニストを気取って、やはり合理的だった古い優生学を断罪することが上手な私たちは、一方でそれよりはるかに残酷な新しい優生学を実行することは、もっと上手にする。国家権力が強制する断種や虐殺ではなく、選好を行うわれわれ個人の自由だからというのがその理由だ。
個人の自由で合理的に行うのなら、虐殺も断種も、突然残酷ではなくなる。自由で功利的な選好を主張してアフガニスタンやイラクに侵攻し、虐殺を行うアメリカの論理は、残念なことに現代の私たちの日常行為を支えている論理とぴったり重なっている。それが「ほかならぬ相手のためになる」という押し付けがましい態度も、両者そっくりだ。

そうした私たちの側で行われる合理的殺人の中で、このところ勢いを増しているのは、尊厳死と言う日本独特の言葉を用いた合理的殺人容認の主張である。尊厳死:Death of Dignityと言う言葉で意味されるのは、本来なら「尊厳有る死」という「死に逝く者側」のある精神的態度を指している。傍目にはどんなみじめな死に方であっても、それを「尊厳有る死」と思える人にとっては、それは尊厳死である。

だが、優生論者であった大田典礼を理事長として設立された日本尊厳死協会なる団体が主導して日本で通用しているそれは、そうしたもともとの尊厳死概念とは似ても似つかないものだ。他者によって積極的に殺されない消極的安楽死だけを、尊厳死と呼んで法的に認めさせようとするのである。それは他者が殺すのでもないし、機械を用いて「無理に生きさせているのでもない」ゆえに「自然」な死であり、その「自然さ」ゆえにそれは「尊厳を保った」死なのであると彼らは言う。しかもそうした尊厳死は、個人がその自己決定権を用いて自由に選択した、つまりは選好的なものだから、民主的で問題がないのだと。確かにこうした死ならば、私たちも受け入れやすいかもしれない。

だが、「自然」と言う便利な言葉を用いた、一見もっともらしいこの主張の裏で、何が画策されているかを考えてみよう。尊厳死と言う言葉で呼ばれている消極的安楽死は、今までにもかなり行われてきた。だからことさらにこの死を「法制化」しようとする運動の要点は、その「法制化」にある。法がその死を公認するようになれば、消極的安楽死=尊厳死の形をとった合理的な殺人が、法的な制度として、合法化され、自由に行うことが可能になるというわけだ。

ここで「自由に行う」と言っている言葉の主語は、あいにくなことに「死に逝く者」の側にあるのではないことに注意しよう。現代では「死に逝く者」は、かなりの確率で自己意識を失っている。自己意識を失っているということの本質は、本来ならば、植物状態がそうであるように、認識はしているのに、それを他者にうまく伝達できない、コミュニケーション障害の状態に陥っているということである。つまりは自分で何かを認識し、伝えたいと思ってはいるのだが、それを外に出して伝えることが難しい状態。

日本では(そして世界でも)、あらかじめ死の態度を、自己決定権を行使して決めている人はわずかである。コミュニケーション障害で在るとき、他者がそうした人の認識を理解する研究はまだ始まったばかりで、植物状態をコミュニケーション障害と認めることすら、ごく少数の専門家しかしていない。普通の医師は、意識喪失=認識能力喪失と決め付けられている。それゆえ死の態度を決めているほんの少しの人であっても、それを決めたときの考えを持続させているかどうかを、他者が理解することは、そもそもできないと思い込まれている。

だから尊厳死=消極的安楽死を選択するのは、かなりの確率で「死なせる側」、すなわち医師や周囲の家族である。安楽死公認国であるオランダの実情に照らす限り、「死に逝く者」の自己決定権は、実質的になくなる公算が大きい(詳しくはH・ヘイドン『操られる死-安楽死がもたらすもの』時事通信社 2000)。安楽死は「死者が行う」というより、「死者をそのようにさせる」ものである。

このごろ厚生労働省主導で行われている調査や研究でも、死に方を決定するのは、医師や家族であって、「死に逝く者」は疎外されている。尊厳死と称する安楽死法制化によって、可能になるのは、たぶん死者本人の自己決定による「自然な死」ではなく、死者を取り巻くものたちによる合理的殺人になるだろう。

「福祉とは金で買う商品だ」と、厚生労働大臣が平然と主張し始めた日本では、権利としての福祉は早晩形骸化するだろう。福祉を金で買えない人々は、自己責任で健康を保持し、自己決定して死んでいかねばならない。成人病は生活習慣病と言い換えられ、ナチスよろしく健康が義務となって、肥満も老化も不健康も失業も、自己の責任にされてしまった。自己決定と言う自由権は、自己責任と裏表の関係になっている。自己責任ならば、それを救済する責任は国家には無い。

医療・福祉費を減らして、自己責任ですべてをまかなわせる果てに予定されているのは、前にも記したバイオテクノロジーのための人体市場拡充である。すでに日本救急医学会は、末期がん、重症の大やけど、いわゆる脳死者、身寄りの無い認知症の老人、不法就労の外国人などを、救急の対象からはずす検討を始めた。尊厳死なる言葉で合理的に殺人された人体や、植物状態の人、さらには障害者までが、この列に加わる日は近いかもしれない。