「図書館詩集」12(宗谷で生まれた宗谷トム)

管啓次郎

宗谷で生まれた宗谷トム
この先には海しかないとは思わなかった
知っていた、島影が見えること
知っていた、あちらと行き来する人々がいたこと
巨大な黒いからふと犬がわんわん吠えて
北へ行こうよ、北へ帰ろうよとせかす
出発をはばむのは勇気の欠如?
いや、国境だ
宗谷トムはトンコリを弾きながら
サハリン生まれだったばーちゃんを思い出す
ばーちゃんが飼っていたからふと犬の
ミーシャを思い出す
海辺で鳥が遊ぶのを
よく眺めていた犬だった
ばーちゃんの夢は青森に行くことで
それはばーちゃんが目の青い父親から
話を聞いていたから
ほんとうに森が青い、その森が
どこまでもつづくというのだが
それはたぶんばーちゃんの想像
ばーちゃんは旭川までしか行ったことがない
札幌も知らない
北端よりはるかに南にある土地だから
青森では
夏が長く春は早く山は青いと思ったのでは
ばーちゃんがもしからふとを覚えているとしても
それはたぶん子供として見聞きした
村の風景に限られていると思う
心にしかない土地が
いつか見た土地とおなじ重みをもつのが
人の心の仕組み
見たこともない土地を
水平線に見ている
それで心が騒ぐ
宗谷トムの想像は全方位にむかう
見えないものも
見てはいけないものも
全方位から岬に押し寄せてくる
やってくるたび岬が再定義される
耳がうさぎのように伸びる
海の上をおびただしいうさぎが
跳ねてくる、やってくる
海の中ではおびただしいにしんが
泳いでくる、やってくる
空にはかもめ舞い
太陽が黒々と光る
宗谷岬からサハリンまでは43キロ
ちょっと遠いな
竜飛岬から北海道までは19.5キロ
海が荒れていなければなんとかなるかも
縄文人は本州の子猪を道南に運んで
それを育てては「送って」いたらしい
その儀礼のやり方が
アイヌの「熊送り」とつながってくる
子熊を捉えてニンゲンのこどもとともに
まったくおなじように育てるのだ
子熊はよくなつき、かしこく、愛嬌があり
ほんとうにほんとうにかわいい
「子供たちもすっかり元気になり、
養っていた子グマと一日中、
楽しそうに遊んでいました。
この子グマは、ほんとうにかしこくて、
人間の言うこともすることも
なんでもわかるのです。
政代と末子が棒を持って
「ブランコ、ブランコ」と言うと
走ってきて、
左右をちゃんと見て、
棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです」*
それはなんという夢のような
遊びだろう
だがそれは夢とは正反対
熊とかれらとの直接的な
肉体的なふれあい
それなくしては動物どころか
世界のことが何もわからないふれあい
私たちの社会にあまりに欠けているふれあい
ぼくとしてはこの世を限られた時間
歩きながら少しでもそんな
ふれあいを取り戻したい
この手でふれるのが無理ならせめて
物語を真剣に思い出したい
そのとき現実と物語をむすびつつ
ニューロンがどんなふうに発火
するのかを体験したい
知里幸恵『アイヌ神謡集』が
最初に出版されてから百年が経った
その百年がひきつれるのは
その前の一千年一万年の記憶
聞き覚えた物語を
初めてアルファベットで記し
それを日本語に訳して
初めて文字で届けてくれたのは
まだ十代の少女の偉大な魂
彼女が聞きみずからも口にした音が
塗りこめられた文字列を
なぞりながら
その意味もわからないままに
唱えてみようか
トワトワト
ハイクンテレケ ハイコシテムトリ
サンパヤ テレケ
ハリツ クンナ
ホテナオ
コンクワ
アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!
トーロロ ハンロク ハンロク!
クツニサ クトンクトン
カッパ レウレウ カッパ
トヌペカ ランラン**
以上、きみはそれを三度でいいから
声に出してくりかえしてください
たとえ意味がわからなくても
必ず声に出してください
そこに不思議を感じないということが
あり得るものだろうか
よみがえるよみがえる
文字を手がかりに音を口ずさむ
文字を乗り物として音がみずから
やってくる
そのとき音を乗り物として
やってくるのが神だ
誰が口にするのかは関係なく
その場で生まれている空気のふるえに
振動によって
事物の関係が変わっている
そのことが神だ
そんなことを考えながらどんどん
歩いていくと
となかいの群れがいた
ラップランドから連れてこられたのかな
逃げるわけでもないが
なつきそうにない
それほど殊更こっちに無関心
耳に切り込みがあるのは
飼い主の徴か
橇、毛皮、肉、乳のいずれのためでもなく
ここにいるんだとしたら
どう扱うべきか挨拶に困る
どうどうどう、はいやー
飼われているのがとなかいで
野生のものがカリブーだというが
これらのとなかいはカリブー化したいのか
サハリン島のウイルタは
飼馴鹿をウラー
山馴鹿をシロと呼び
シロの狩猟のために囮にする化け馴鹿を
オロチックウラーと呼ぶのだということを
『ゴールデンカムイ』に学んだ
あれはものすごい漫画だよ
われわれの歴史・地理観を変える
こっちは狩猟民ではなく
漁撈民でも採集民でも
農耕民でも商人でも
技術者でも官僚でもなく
せいぜい最終民
ニンゲン世界の終わりを見届ける者だが
悲嘆にくれている暇はない
となかいに乗ることを断念して
ほらそこをゆく男と一緒に
これから海岸線を歩こうじゃないか
これからまだまだ
まだまだこれから
男は小柄だ、身長148センチだって
天塩川のほとりですでに会っている
僧侶の風体に北方民族の装身具をつけて
どちらまで?
いや、樺太帰りでね
これからオホーツク海の海岸線を
どんどん歩き
知床まで行くのだよ
もしやあなたが宗谷トム?
そんな名前は知らないな
私の名は「多気志楼」とも書きます
この名のユーモアがなんとも好ましい
気が多いやつなんだよ
頭の中で万国と森羅万象が渦巻いている
志すのは、めざすのは楼閣
それがどこにも見つからなくても
彼は歩いていく
「弘化二年(一八四五)、二八歳ではじめて
蝦夷地へと渡った松浦武四郎は、太平洋側を歩き、
夜の明け切らぬうちに知床半島の
先端にたどり着いた。/日の出を待つ間、
案内してくれたアイヌの男性二人に、瓢箪に入れた
お酒を振舞うと喜んでくれ、彼らは海岸に下りると
大きなアワビをとってきて、アワビの刺身で
一杯やりながら輝く朝日を一緒に眺めた」***
多気志楼以外のどの和人にそれができただろう
いったいどれだけの距離を歩いたというのだ
二八歳でそれを果たすことができなかったぼくには
それは曙光の中のぼんやりした夢でしかない
まだ二八歳にみたないきみには
ぜひそんな歩行を試みてほしい
いったい岬までの道はどんな道?
未明の森に羆の気配を感じることはあったのか?
かれらは鮑の刺身を
醤油、ひしお、塩のいずれで食べたのか?
そんな疑問がいくつも生まれる
そして空想の土地と現実の場所を
空想の過去と現実の未来を
つなげてゆこうと思うなら
ただちに歩いていこう
いま出発して
知床を目指して歩くのだ
世界がまた終わるまえに
シルエトクとは大地の果て
トワトワト
トワトワト

*砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(福武文庫、1990年)より
**知里幸恵『アイヌ神謡集』(岩波文庫、1978年)より
***山本命『松浦武四郎入門』(月兎舎、2018年)より

稚内市立図書館、2023年8月22日(火)、快晴