コヨーテとオサムシ

管啓次郎

書かれたことのなかった話を知っていますか
書かれたことのなかった話を知らなければ
この世のことは何もわからない
だがその話はよく聞こえない

書かれたことのなかった話を
いま自分が初めて書くとすると
それはどんなに震えるような経験だろう
文字だってぶるぶる揺れる

その話は語られたことはあるのだ
語りはくりかえし続いてきたのだ
誰が最初に語ったのかはわからないし
そんなことは誰も気にしない

けれども文字にするとき?
書かれてしまえば話としてはいったんおしまい
線を刻んだり記したりした後で
文字が煮えるのを待たなくてはならない

文字が音をたてて騒ぎだし
弾けるようにそこから声が出てくるのを
息をひそめて待つ
ときには目を閉じて

話は声だが文字は沈黙
沈黙をまた熱して
ひゅーひゅーと叫ばせてみたい
そのための文字だ

そのために折角
鳥や亀に学んだのだから
蜜蜂のダンスや
ナマケモノの動きも習ったのだから

そこで早速はじめるなら—
たとえばコヨーテとオサムシの話です
ご先祖たちはやってきて
「まんなかの蟻塚」あたりに住みはじめた

この高原砂漠は太陽の土地
森なく日陰なく
ジリジリと地面が焼かれる
そこい蟻塚が立っている

話を聞かなければすぐにわからなくなる
いろいろなことがわからなくなったから
思いだす必要があった
よく聞くんだ、目を閉じて

いまの子供であるおまえたちだって
オサムシは見たことがあるだろう
今のオサムシだって
昔のオサムシとおなじものなのだ

それが不思議なところだ
不思議だと思わないおまえはバカだ
かれらは百万年前だってほとんどおなじだったのだ
それはどれほどえらいことか

かれらが人間よりえらいということが
わからない人間はバカだ
この世には変わることと
変わらないことがあるのだ

オサムシは乾いた地面をちょこちょこ走る
そうやって春と初夏をすごす
どんどん強くなる太陽のもとで
脚で空を蹴りつつ

地面に割れ目や穴があったら
どんどん潜っていく
知っているだろう、見ただろう
かれらは恐れを知らない

むかしの話をします
あの黒い塩の山にむかう道で
むかしのあるとき
オサムシが一匹

太陽を浴びながら走りまわっていた
日光を苦にしない強い生き物だ
何を求めているのやら
オサムシに必要なものを探しているんだね

そこにコヨーテがひょこひょこと
小走りにやってきた
それがやつらのやり方だ
身についた生き方だ

耳を立て鼻面を地面につけて
首をぐっと低くすると
オサムシにむかってちょちょいと前足を出した
そして「は!」というんだ

「おまえを齧ってやろうかな」
オサムシはただちに頭を地面につけて
とがめるように触角を一本ふりかざし
ありったけの大声でこういった

「待った、待った、ともだちよ!
ちょっと待ってくださいよ!
お慈悲ってことを知らないのかい!
あのね、この下からじつに妙な音が聞こえてくるよ!」

「へん!」というのがコヨーテの答え
「何が聞こえるんだ?」
「しっ! しーっ!」と頭を地面につけたまま
オサムシはいった。「聞いてごらんよ」

そこでコヨーテは一歩下がり
じつに熱心に耳をすました
やがてオサムシは長い安心のため息をついて
身を起こした

「オクウェ!」とコヨーテがいった
知らない言葉なので
意味もわからないので
その通りに書いておく(それが文字の強み)

「いったい何だった?」
「よき魂よ、われらをお守りください」
とオサムシが頭を振りながらいった
「かれらがいってたのが聞こえたよ

この土地で道を汚した者は全員
狩りだし徹底的にこらしめてやるってさ
どうやらそのための
準備に大わらわらしいね」

「わが祖先たちの魂よ!」とコヨーテが叫んだ
「まさに今朝方、道路をうろうろ歩いていてね
あちこち汚しちまった
まずかったかな

おれはずらかろう!」
そういってコヨーテは全速力で逃げていった
オサムシはすっかりうれしくなって
宙返りをしようとしたところ

頭を砂につっこんでしまった
それからやっとの思いで
体を立て直したんだっけ
コヨーテに齧られなくて一安心

こんなふうにしてむかしのオサムシは
食われちまう身をみずから救ったのさ
運命を変えたんだね
地面の下の方たちの力を借りて

また、こうしてオサムシはあの妙な
癖を身につけたというわけだ
頭を砂につっこみながら
両脚で宙を蹴るってやつだね

もがいているみたいだが
そうでもない
あれはやつらの生存ダンスなのさ
手短にいえばそういうこと

このコヨーテとオサムシの話は
ズニの村に伝わる話を
フランク・カッシングが
聞き取って文字にした*

ぼくはこの話を聞いたことがない
そもそもズニの言葉がわからない
英語に変換され文字に記された
何かをおぼろげに了解しただけ

理解は誤解
いろいろなものが紛れ込む
空耳、空目、空想、想像
話は変わる

文字にしたって変わるのだ
それが話の強みです
なぜなら話は捉えようとしているからだ
まるごとの時間と空間を

三十年前のある夕方、ぼくはズニの土地に立ち
斜めからさす夏のオレンジ色の陽光の中
川沿いに燃える緑を目で吸いながら
生き返っていた

そこにコヨーテがやってきた
あのひょうひょうとした足取りで
何かいいもの/ことはないかと
土地を探っていたんだね

コヨーテはぼくに気づき
そこにすわって大あくびをした
犬とまったく変わらないな
少しすると行ってしまった

でかすぎて齧るわけにもいかないし
何かくれそうにもないし
言葉も通じないと
あきらめたんだろう

それがズニの土地の思い出
話したことも書いたこともなかった
ただ文字という貝殻を
寄せ集めるようにして今これを記す

手短にいうと
そういうこと

*“The Coyote and the Beetle” in Frank Hamilton Cushing, Zuñi Folk Tales (1901).