流域論

管啓次郎

川の中を川が流れている
ゆるやかに曲がりゆるやかに流れ下る
ウイスキー色をした大きな川のまんなかに
緑と乳白色の中間のような新鮮な冷たい川が
大きな川を遡上するように激しく流れてゆく
流れは強烈な力を感じさせて
流れと流れがせめぎあう境界面に
いくつもの渦が生じている
一方には時計回り
反対側では反時計回り
記憶をわざと混乱させるような渦たちは
二つの背反する時を見せようとでもいうのだろうか
でも不思議だ、ここには季節がない
緯度もなく気候もなく夜もなく昼もない
まるで草原を思わせる広い河原にぼくは立ち
ゆたかな焦茶色をしたしずかな水にむかって
枯れ枝を何本か投げてみる
最初は小さな枝だ、指ほどの小枝
それから竹の物差し程度の長さのもの
大人の腕ほどの太さのもの
野球のバットのようなもの
ついには両手で抱える大きな枝だ
投げるたびに水面でしぶきが撥ねて
それに興奮した魚たちも飛び跳ねる
飛び跳ねた魚たちが水中に帰るたび
生命の同心円がいくつも干渉しながら広がる
それからむかし弟に聞いた話を
ぼんやりと思い出した
それは誰かの短編小説で
タイトルは「川の第三の土手」
筋はまるで覚えていないけれど
たしかブラジルのどこかの地方の川岸に住む少年の
父親があるとき小舟で川に出てゆき
そのまま岸辺に戻ることを拒否し
こちらの岸でも向こう岸でもなく
ぐるぐると川をまわって生きているという話だったのではないか
第三の土手を求めて
あるいは父親のその姿を見て少年のほうが
「父さんが求めているのは第三の土手だ」と思ったのか
それともまったくちがう話だったのか
弟は「ぼくはぼくの第三の土手を探しに行く」といって
ブラジルに行き
アマゾン河をマナウスまで溯っていった
それからどうしたのか知らない
もう三十年も会っていない
あの弟は誰だったのか
最後にもらった絵はがきはマンゴーの樹の写真で
「こんな樹の下に寝て熟した実が
落ちてくるのを待ってます」
と暢気なことが書かれていた
ぼくには妹もいて
活発な子だった
子供のころぼくらが住んでいたのは
水郷と呼ばれる土地で
巨大な三本の川が並行して流れ
デルタとデルタが重なり合って
人々は氾濫原に住んだ
住むために村の周囲を土で固めて
洪水に備えるとともに
どの家も小舟をもって
必要に応じてそれを使った
そこは水の王国、泥色の水の中に
鯉や鮒や鰻やすっぽんが住み
それらが獲れればぼくらはそれを食べた
妹はまだ小学生なのに祖父に教わって
うまく櫓を漕げるようになり
釣りの仕掛けも上手だった
妹はその後ルイジアナに住むことになり
ミシシッピ水系で釣った
なまずのフライをよく食べているといっていた
でも彼女にもずいぶん会っていない
私たちの生涯はすれちがいの連続で
それだけに子供時代が大切に思えてくる
さびしいけれど輝かしい時だった
金魚や亀を大切に育てていたころだ
昔の話だが
(Let bygones be bygones…)
それから平野の成立について考えることがあった
思えば平野にしか住んだことがない
都市にしか住んだことがない
港のある町にしか住んだことがない
人間だらけの土地にしか住んだことがない
それでどれだけのものを失ってきただろう
何が自分の人生に欠けているのだろう
すべての平野は川の造形物であり
平野の多くの部分が湿原であり
その湿原を水田に転換してきたのが
日本列島の歴史だったのだ
恐ろしくなるほどの米の単一耕作
稲以外の草をすべて排除した光景を
美しいと思う感受性が
さくらが一斉に咲き一斉に散ることも
美しいと思うのか
「そういうことだろうね」と友人がいった
「サクラというのはサの神の座のこと
ほら、磐座というときの座とおなじさ
そしてサというのは稲の神のことで
それに仕える少女たちをサオトメと呼ぶ
稲の苗がサナエで
それを植える月がサツキだよ」
ああ、そんな風に考えたことはなかった
そんなことも知らずに米を食ったり
桜をうとましく思ったりしながら
半世紀以上も生きてきたわけだ
われながら情けない話だな
それでも稲は稲で不思議な旅をしてきた
熱帯植物がしだいに北にむかい
河口近くの平野から川沿いに上流にむかい
列島のすみずみまで
Oryzaがゆきわたった
それで生きてきた
それは貨幣の代わりでもあり
それが支配/非支配を決めた
虐げられた人々を苦しめた
この穀物にみちびかれながら
人々は川をさかのぼり
新たな土地をひらき
それだけ山が飼いならされ
それだけすべてがおとなしくなった
恐いのは海流がもたらす
冷たい夏の風
あるいは思いがけず生じる日照り、渇水
それで実のない穂がつけば
人が死に、売られ、土地を追われることもあった
それはいろいろ無理していたからにちがいない
人間が人間に無理を強いていたにちがいない
土地にも、他の植物や獣たちにも
無理ばかりさせていたにちがいない
人口をむりやり増やしたり減らしたり
そんなことをしながら生きてゆくしかないのか
もう気持ちを切り替えようと
別の国に来てみた
制服姿の中学生が molecular perception
とはどういう意味かと訊ねてきた
個々の分子が環境を読み取っているということだろうか
わからないので曖昧に笑って首を振った
ここは絵はがきの宛名面の四分の三が隠れる
くらい大きな切手を貼らなくてはならない国で
絵はがきの写真は顔半分まで
水に潜った水牛だ
仕事のあいだに暑さを避けて体を冷やしているのか
みずからを洗礼しているのか
絵はがきとまったくおなじ姿勢で
別の水牛がそこにいる
働いてくれてありがとう
でもきみも働かされるのはいやだろうね
しばらく休んでいるといい
その飼い主から丸木舟を借りることができたので
これから上流をめざしてみようと思う
この大河のまんなかにも
あの新鮮な冷たい川がある
緑と乳白色をして
かなりの勢いで流れている
上流にむかって、谷間にむかって
山地にむかって、始まりにむかって
うまく操るだけで漕がなくても丸木舟は進む
一世紀を十世紀をさかのぼってみたい
一万年十万年をさかのぼってみたい
土地の削れと堆積を同時に見たい
ぼくが行かなければ誰も行かない
誰にも見えないこの川の第三の岸辺への途上で