犬狼詩集

管啓次郎

  9

ダイアンがカナリア諸島の話をしてくれた
彼女はポーランド生まれのユダヤ人
カナリアとベネスエラ(小ヴェネツィア)のあいだにはつねに
大洋を越えた人の往還があるせいで
広場から放射状に展開する町の構成は
どうも旧世界的ではないのだそうだ
その布陣は土地の人々の村にはじまり
教会がそれを踏襲し空間を制御しているの
なつかしさの名において語られる (nostos, nosotros, nuestra nostalgia)
初夏の午後五時の光が広場に射すとき
時間は驚くほどよく静止し
驚くほどよく新鮮だ
そこに遠い土地の知識をもって
風を撹拌するように燕がすらりと飛ぶ
しずかな広場には椰子の木々が植わり
私の瞼では南の雨が踊る

  10

「視線は梢をめざし指先は花をめざす
私たちの回心は寺院の回廊をめぐる」
愛らしいほど無愛想なロバにまたがり
山のごつごつした稜線を行きながら
文字に書き留められることのない思考を試すのが
その夏までの日課だった
人の生涯は短い、よろこびも悲しみも短い
大陸が卵の殻のように割れまたひとつになり
地軸が傾き磁極が反転する時間は想像がつかないけれど
それでもときどき降るように
別の時間がやってくることがある
みるみるうちに子猫が大きく育ち
みるみるうちに雲が空をわたる
海流の温度が刻々と変わり星座と鳥が落下する
私はロバの背中から手をふり
まだ受胎されないきみに挨拶する