「MINAMATA」と「ONODA」。外国人監督が描いた日本の物語を2つ、11月にロードショーで見た。今、なぜ水俣なのか、小野田少尉なのか。歴史の教科書で知っているからと言って、本当に知っていることになるのか? そこに生きた人々の姿から、本当に学んだのか。そんなことを考えた。
気候変動や新型コロナウイルス、今もゼロにはならない戦争。今、「水俣」や「小野田少尉」を描くことに意味を見出した外国人監督によって、国を超えて、人間の問題として、50年経ってまだ解決されていない物語として編みなおされて、届けられたのがこの映画なのだと感じた。「知っている」と思い込んでいた日本人は取り上げないテーマだったのだろう。
「MINAMATA」では、ジョニー・デップがユージン・スミスを演じている。映画のパンフレットに川口敦子が書いている。「すでに土本典昭監督作はじめ水俣と向き合った渾身の記録映画が見事な成果を差し出した後に、「史実に基づいた物語」とのことわりを冒頭に掲げた劇映画に何が描けるのか」と。しかし、このような偏見、先入観、予断から不安を持って見始めたけれど、「映画「MINAMATA」が劇映画として、ドキュメンタリーとは別のルートで現実と向き合い、そこにある真実へと近づこうとしていること、つまりは客観的な記録映像こそが真実への唯一の扉といった先入観を覆してみせたこと、その果敢な選択がユージンとアイリーンが向き合ったミナマタの真実と可能な限り共振するための術―と、監督アンドリュー・レヴィタスも、主演デップも撮影ブノワ・ドゥロームも迷いなく覚悟を決めて、それが映画の妙味を浮上させていく。」と。
川口のこの見方に私も共感する。確かに、ユージンが水俣に到着した直後に出会う「アコーディオンの少年のいる淡い緑の雨の夕べ」の風景は、いつまでも心に残るシーンとなる。作り物の限界を感じつつも劇映画として分かりやすく、「MINAMATA」を現在に再び伝えることは必要なことだったのではないかと思った。水俣病が公式に確認されてから65年、いまだ救済を求めて裁判が続いているという事、水俣のように人間によって引き起こされた環境破壊と人への被害が世界中で起きていることがエンドロールで紹介されるのを見てそう感じた。
「ONODA」は1981年生まれのフランス人監督、アルチュール・アラリによる作品で、2021年度のカンヌ映画祭の「ある視点」のオープニングに上映された。15分間のスタンディングオベーションを受けたという事だ。日本人俳優による日本語での演技。そのまま日本映画のように見ることができる。日本人が見て違和感を覚えるような日本人の描き方になっていない所が良い。上映時間の2時間54分を、小野田少尉の横で過ごしたように感じる映画だった。「小野田さんの時間を生きて見せた」そんな俳優陣の演技が良かった。小野田さんの内面の葛藤がモノローグで語られる演出など一切なく、上官の命令を守って赴任地を離れようとしない小野田の姿と、彼の判断に従って同行する4人の男たち、事実通りなのだろうが、最後まで小野田のそばを離れず、忠誠をつくし、命を落とす、そんな人間の在り方の不思議さをしみじみ感じた。日本に帰るヘリコプターの中で、これまで自分の世界の全てだったルバング島を小野田は上から眺める。セリフも字幕もない、小野田の顔のクローズアップのラストシーンだ。俯瞰してみて、島のあまりの小ささに愕然としたのではないか。そんな思いを重ねて私は見ていた。シチュエーションを変えて、同じような悲劇が今でも起こっているのではないか、そう思わせる象徴的なシーンだった。
水俣については、その後こんなニュースが入ってきた。
原一男監督のドキュメンタリー「水俣曼荼羅」(3部構成で上映時間6時間12分)が完成し、11月27日からシアター・イメージフォーラム他で上映されるという事だ。見てみたいけれど、6時間に耐えられるだろうか。
「MINAMATA」の映画の写真を帯につけた『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』という石井妙子による評伝が出版されている。ユージン・スミスの写真により「水俣」と出会い直し、福島原発事故によりアイリーンと再会した石井妙子が、コロナ禍の2021年に取材に出かけ、ユージンとアイリーンについて書いている。読み始めたところだ。ほぼ同世代の石井妙子によって描かれるユージンとアイリーンの姿にも興味を惹かれる。