春に

若松恵子

急に暖かな空気が日本上空にやってきて、春を感じさせる夕暮れ。5時近くになっても明るさが残るようになった空に、薄い三日月と一番星が美しく輝いている。信号待ちの自転車を止めて「ああ、きれいだな」と見上げる。春を想い出させる1日の終わりに、吹き始める風がまだまだ冷たくて、センチメンタルな気持ちになる。

風邪ひきの布団の中で沢木耕太郎の『春に散る』上・下巻(2017年1月 朝日新聞出版)をずっと読んでいた。2015年4月1日から2016年8月31日まで朝日新聞に連載されたものが、単行本になったのだ。連載中に読むことができなかったので、単行本の刊行を楽しみにしていた。

かつてボクシングの世界チャンピオンを目指し、挫折した後もアメリカでひとり懸命に生きて、人生の終盤をむかえた主人公が病を得て、40年振りに日本に帰ってくる。「死ぬ前にぜひやっておきたいこと」が明確にあるわけでもなく、「生まれ故郷の日本で死にたい」という思いがあるわけでもない。「帰ろう」と思えばすぐに引き払う事ができる、アメリカとのつながりもそんなさっぱりとしたものだった主人公が、ふと日本に帰ってきて過ごす、春から次の春までの1年間の物語だ。

人を求めていない主人公だが、普通に生活するなかで出会う人たち、かつて知り合いだった人たちに丁寧に向き合っていくうちに、次第につながりができてくる。そして「ただその場に止まりたくないという思いだけで、ここまで歩きつづけてきた」主人公が、「いま、自分は、遠ざかろうとしているこの場所に心を残している。」と感じる自分の居場所を得ていく。

ボクシングを教えることを通じてかつてのジムの仲間、若い世代との絆が結ばれていくストーリーは、沢木ファンにはうれしい展開だ。高倉健を主人公に考えていた映画の脚本のアイデアがこの小説のきっかけになっているというような話を沢木氏はラジオ番組でしていたけれど、孤高の主人公、広岡仁一は高倉健のイメージにも旅が多い沢木氏自身のイメージにも重ねて読むことができて、なかなか魅力的だ。沢木ファンとしては、広岡の姿を追っているだけでもいいという楽しみ方もあった。

沢木耕太郎のノンフィクションとフィクション、どちらが好きかと聞かれれば、断然ノンフィクションの方だ。彼のフィクションには、直球すぎると感じる部分が多い。例えば主人公の名前、「仁一」は、八犬伝のなかから出てくる8つの言葉から父親が「仁」が一番大事だと思ってつけた名前なのだというくだりがある。「仁が一番だから仁一」・・・・うーん。そのまんまだ。少しもスタイリッシュじゃない・・・。しかし、「仁」という言葉をあらためて調べてみると、「他人に対する親愛の情、優しさ」とある。さっきまで過ごしていた物語の時間の中で、広岡のあり方は、この「仁」の説明文のようだった。そして、「優しくしよう」と心がけるからではなく、他者に対する自然な振る舞い方としての優しさによって、思いがけずに人との関係が広がっていくという物語だったな、と思い返されるのだ。

読み終わったばかりの『春に散る』は、まだ丸ごとの物語の時間として、春の夕暮れの淋しさと共に思い返されてくる。広岡が帰ってきた春、行ってしまった春。両方を含んで今年の春がこれからやってくる。