4月に触れた2つの作品に、共通したある印象を抱いたので、書きとめておこうと思う。
ひとつめは、村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。36歳の主人公「つくる」は、心に封印してきた過去のできごとを乗り越えるために、当事者たちをめぐる”巡礼”に出る。5本指のように分かちがたく結ばれていた友人グループから、突然理由も告げられずに追放された「つくる」は、20年後に、そのできごとの意味を確かめるために友に再会していく。そこにどんな理由(秘密)があったのか、私も謎解きの興味を持って、どんどん読み進んだ。
物語のなかでいちばん印象に残ったのは、「つくる」の年上のガールフレンド「沙羅」の存在だ。「つくる」に”そのままにしておかないで、解決しなさい”とはっきり忠告する年上のガールフレンド。沙羅を失いたくないという気持ちが、初めて彼を行動へと後押しする。何かに捉われていて、自分にきちんと向き合っていない「つくる」の様子を見ぬく沙羅は”ただものではない”。世界を俯瞰していて、ちょっと神様みたいな位置に描かれている。「つくる」より、色々な力と明確な意志を持っているだろう沙羅が、なぜ「つくる」に魅かれるのか、どこに魅かれているのか、その理由はほとんど語られない。しかし、「つくる」は沙羅に愛されることになるのだろうと予感させて物語は終わる。「つくる」のなかにある佳きものを沙羅は直観で確信したのではないだろうか。直観がまずあり、理由はあとから来る、そんな気がしてならない。そして「つくる」をたすける人物として、そういう存在を、村上春樹は必要としたのではないかと思った。
もうひとつの作品は、園子温監督の『ヒミズ』(2012年)だ。不幸な生い立ちの中学生、主人公の「住田」を愛し、たすけようとする同級生の少女「茶沢」。「茶沢」もまた、クラスの外れ者である「住田」のなかにある佳きものを、直観的に確信している。その揺るぎなさが、その思いの強さが、主人公を取りまく世界の絶望感に、小さな希望をもたらしている。原作の漫画と変えてあるラストで、「住田」もまた、「茶沢」に励まされながら、絶望的な現実から抜け出すために走り出すのだ。
沙羅と茶沢に共通のものを感じたのは、こじつけではないと思いたい。理由ですべて説明できない、割り切れない現実に対して、にもかかわらず前へ進もうとするときに、理由なく自分をみつけてくれる存在、直観的に揺るぎない肯定をしてくれる存在が必要だ。女が、男がというのもどうかと思うが、物語のなかでは、理由など問わない女の直観の強さが、男を励ましている。