もうひとつのドリーム・シンドローム〜ジョン・ケイルの場合

三橋圭介

あの有名なバナナのジャケット。◀PEEL SLOWLY AND SEEとアンディー・ウォーホールの名前しかない。ゆっくりバナナのシールをめくってみると赤っぽい実があらわれる。アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」は、1966年に発売された。

「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」の魅力とは何か? ルー・リードの人間の深部を抉るような詩とその歌声の魅力はもちろんだが、ロック・バンドでヴィオラを奏で、ベースやキーボードなども担当したジョン・ケイルの実験精神も同じくらい大きな存在だった。その意味では、確実にリードとケイルの化学反応が起こしたバンドだろう。それゆえケイルが参加した2枚のアルバムで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは終わったという見方もできる。では、このバンドでのケイルの具体的な役割は何か? それはラ・モンテ・ヤングやトニー・コンラッドなどと行なった永久音楽劇場やドリーム・シンドロームでのドローン体験をバンドにもたらすことだった。

ジョン・ケイルは、1942年、イギリスのウェールズに生まれた。幼少の頃より、ピアノ、ヴァイオリンを学び、ウェーリッシュ・ユース・オーケストラに参加。その一方、ラジオでリトル・リチャード、エルヴィスなどのロックもきいた。ゴールドスミス・カレッジに進学し、作曲(音楽学という著作もある)をカーデューなどに学び、フルクサスの存在を知る。1963年7月には大学(カーデュー主催)でケージなどのアメリカ実験音楽とフルクサスを特集した2日間の音楽祭(A little Festival of New Music)が行われ、演奏者としてケイルも参加している(ヤングの作品は3作あったが、ドローンによる作品はない)。卒業後はコープランドの推薦でタングルウッドの奨学金を得、作曲の夏期マスター・クラスでクセナキスに学ぶ。クラスの終わりに行われる生徒の作品発表で、ケイルは舞台中央のテーブルを斧で破壊するというフルクサス的パフォーマンスを行なった。その年秋、ニューヨークに行き、ケージが行なったサティの「ヴェクサシオン」の世界初演に参加。この後、ケージの紹介でヤングとのミニマルな永久音楽劇場やドリーム・シンドロームへと至る。

クラシックからフルクサス、ドリーム・シンドロームへと至るケイルの経歴は、そのままヴェルヴェット・アンダーグラウンドに引き継がれたが、なかでも特にヤングのドローン・ミュージックとの出会いは大きかった。ドローンとは、ケイルの故郷のバグパイプの音楽やインドのシタールなどに特徴的なもので、旋律の下で鳴っている持続音のこと(それゆえウェーリッシュ出身のケイルにとって親しみやすかったのかもしれない)。60年代初頭からヤングはそうしたドローンを基本とする音楽を実践していた。そこには一音だけの作品もあるが、ドローン(持続音)の上で即興するために5度と2度を基礎とする場合も多かった。永久音楽劇場の「ラヴィのためのラーガ」でのインド旋法、ドリーム・シンドロームによる”DAY OF NIAGARA”の混沌とした一音のドローン。そこでは音をきくという集中のなかに瞑想や神秘体験を求めている。ひとつの厚みのある音の壁(建築)のきめに耳を凝らし、その音のなかに入り込む。だが、それはしだいに背景のように退いて全体を取り囲む宇宙となるだろう。当時、ヤングはニューヨークで一番のドラッグ・コネクションであり、ケイルはその販売も担当していた。かれらの音楽がどうやって演奏され、きかれていたかは想像に難くない。

ケイルは、ヤングとの活動が金にならないことを悟り、自分で歌を作ろうとしていたという。その矢先、リードのドミナントとサブドミナントを基調とした歌(ドローンが可能)と決定的に出会った。ケイルはそれまでの経験を生かせると感じ、彼の歌にドローンをあてはめた。#ドの持続の上で朗読するような歌が加速をくり返し、ケイルのヴィオラがハウリングしながら狂気へと至る「ヘロイン」、ヴィオラの跳躍するグリッサンドが印象的な「毛皮のヴィーナス」。「ブラック・エンジェルズ・デッド・ソング」では、ヴィオラのハーモニクスによるドーソ・ソーレのドローン(ギターも同じような動きをしている)を一貫して用いている。こうしてロックに移植されたヤングの厚みのあるドローン(音色)が、リードの歌と共振し、激しさを増してヴェルヴェット・アンダーグラウンドとなって完成した。

プロデューサーとなったウォーホールが引っ張ってきたニコが、バナナの皮一枚で抜け、続いてケイルも抜けた。だが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの精神を引き継いだのは、ニコとケイルだった。その後、ケイルはニコのソロ・アルバム4枚をプロデュースした。その2枚目となる1970年の「デザートショア」はその最良の一枚。ニコの乾いた真っ直ぐな声と、ドローンを基調とするケイルの斬新なアレンジは、すでにロックやポップスというジャンルすら越えようとしている。また、彼女の晩年のライヴでは、足踏みオルガンでドローンを奏でながら歌う姿を見ることもできる。リードも後にあの問題作「メタル・マシン・ミュージック」(1975)を作ったが、どれもケイルの存在なくしてはありえなかっただろう。

ブライアン・イーノは書いた。「ファースト・アルバムは10000枚しか売れなかったが、買った誰もがバンドを作った」。そのなかにはデヴィッド・ボウイ、セックス・ピストルズ、ロキシー・ミュージック、ニルヴァーナ、U2、パティ・スミス(詩をメロディに乗せて歌うという意味で、最もリードの影響が大きい)、ソニック・ユースなどがいる。ジム・オルークをはじめとする近年のポストロックなども、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを賛美した。ミニマリズムはロックに影響を与えたといわれるが、ジョン・ケイルは真っ先にそこに飛び込み、ドローンによって新しい音の壁を打ち建てた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、ケイルにとってのもうひとつのドリーム・シンドローム(あるいは夢の劇場)だったのかもしれない。