特別な一日

小島希里

きゅっとこうやって。そう言いながら、Tさんが自分の左腕の袖口を右手で引っ張った。部屋のなかにいた十人ほどの視線が、Tさんの袖に集まった。きゅっとこうやってって、なんのこと?そう思いながら、みんな、自分の袖を引っ張っている。「看護士の金山さんはこうやって、引っ張る、きゅっと」Tさんは、もういちど袖を引っ張り、「内科検診」と付け加えた。いきなり衣服を引っ張られた不愉快が、広い部屋に立ちこめた。
さっきまで、Tさんは山田さんのことを話していた。山田さんは、いつもどなる、大声でどなる。休憩時間、だれも話してくれない。山田さんはこわい。
その前は、ホワイトーボードにいっぱい書いていた。几帳面な小さな文字が、作業所には利用者、支援スタッフ、所長、事務がいて、Tさんたち「利用者」は1グループから9グループに分けられていて、Tさんはその9グループに属していて、山田さんは「利用者さん」の手伝いをする職員「支援スタッフさん」の一人なのだ、とわたしたちに伝えた。そして、同じ作業所に通う人が、そのわきに「やまださんにながされた」と書いた。泣かされた、のだ。
監督官とか指導員とかではなく、支援スタッフと名乗る人が、どうしてそんなに威張っているんだろう?

そうそう、わたしたちは、歌を歌おうと、畳の上にいびつな円を描いて座っていたのだった。
モジャというあだ名の学生が、ギターを叩きならし、歌いだす。「山田さんがどなる、どうして、どなるんだー」Tさんがすっと立ちあがり、瞬時にギターのリズムをとらえる。しばらくの間、片手を太ももの前で軽く振ってからだを上下に弾ませてから、Tさんが歌いだす。「山田さん、山田さん」「山田さん、山田さん」またしばらくからだを弾ませ、歌をさがす。そして自分のことばにたどり着く。「やめろ、やめろ」「やめろ、やめろ」
次は、内科検診でいきなり袖をひっぱった看護士の金山さんについての歌。「引っ張るな、引っ張るな」みんなもいっしょに歌う。「引っ張るな」

しばらくして、港大尋さんがやってきた。できたての「がやがやの歌」をきかせてくれた。

   もしも誰かが困っていたら
   ちょっと遊びにくればいい
   がやがや がやがや
   誰もかれもが トゥトゥトゥ

なんども、なんどもみんなで歌った。

夕方5時。予定していた終了の時間だ。ところがともだちが帰っていってもTさんは帰ろうとしない。残っているスタッフを相手に、Tさんが、がやがやに参加している人たちのグループ分けを始めた。作業所の九つあるグループに、わたしたちを配属しようというのだ。いっしょにプロテスト・ソングをつくったモジャは、利用者でも支援スタッフでもなく、別格の「事務の人」になった。わたしはTさんといっしょの9グループに配属された。山田さんの横暴に抵抗することができるだろうか。いや、これはもうふだんの作業所ではなく、がやがや作業所で、もう山田さんはいないのかもしれない。夢ののっとり計画だ。

こんな風に、終了時間をすぎてからも夢中になって話をつづけるTさんを見るのは、初めてだった。誰かがふざけて人を呼び捨てにしても、だめだめ、と制し、床に広げた模造紙を踏んでも、だめだめ、とたしなめるTさん。遅刻なんかぜったいにしないし、うんち、と歌のなかに出てきても、だめだめ、と嫌がる「正しい人」のTさんが、予定の帰宅時間がすぎても、夢中で新しい作業所の人事案について話していた。