折って綴じると……

LUNA CAT

幼い頃、「ノート」が嫌いだった。
というよりも、「本」にひかれていたというほうが正しいのかもしれない。

幼稚園から小学校低学年くらいの頃、ノートをそのまま使うことをしない子供だった。もちろん、勉強するときには仕方なく使うのだが、プライベートの場では、ひと手間かける。ノートの紙を切り取って折り、セロハンテープや針金で綴じて(ホチキスの平綴ではなく、針金の中綴!)、作品毎に個別に「製本」するのである。作品は物語だったりマンガだったりするわけだが、作品の長さと無関係に、一定の枚数があらかじめ綴じられている「ノート」というものに対して、大いに不満を抱いていたらしい。

三つ子の魂百まで、と言われているとおり、この傾向はその後もずっと続いている。高校までは、不満を抱きつつも、いわゆる「ノート」を使っていたが、大学時代にはルーズリーフノートを愛用するようになった。社会人になってからも、紙に記録することが多かった時代には、ルーズリーフノートを使っていた。時はめぐり、モノを書くという行為が「ワープロやパソコンのファイルにビットを記録する」ことと等しくなってからは、「一定の枚数」から解放され、ハードディスクの容量が飛躍的に増大した結果、記録媒体による制限に煩わされることもなくなって、現在に至る。

「本とコンピュータ」2004春号で「折って綴じれば本になる」という記事を読み、「装丁探索」(大貫信樹著、平凡社)で「針金綴製本」の話を読んで、そんなことを思い出した。

紙を折って綴じることはできても、そこに書く手段が手書きしかなかった時代と違って、いまではいとも簡単に文字や絵や写真がレイアウトでき、印刷できるようになった。ちょっとした分量のものをプリンタで印刷し、綴じる。そうすれば、過不足のないページ数の、ちょうどいい本ができあがる。ほんとにささやかな規模のオンデマンド本というわけだ。

3年ほど前に購入したプリンタは、今ではパーソナル市場からは撤退してしまったらしいが、某複写機メーカーの製品で、いまや花盛りのパーソナル複合機のはしりだった。付属のユーティリティソフトには、「小冊子作成」という機能がある。買ったばかりの頃に試してみたら、縦組みにしても左開きのままになり、使いものにならないので、いちどで懲りてしまったが、オンデマンド印刷機も発売しているメーカーらしい機能と言えそうだ。

パソコン初心者向けの書籍でも、本の作りかたの解説を見かける。解説の中身は、主にワープロソフトの使い方なのだが、本の作りかたというタイトルにパソコン初心者が興味を持つ程度には、人は本を作りたがるものであるらしい。

とはいえ、「本コ」の記事にあるように、「印刷すること」と「製本すること」とは、いまだに頑として別個のものとして存在している。そして、印刷することは驚異的と言えるほど簡単になったけれど、製本することに関しては、パソコンもワープロも存在していなかった頃と、ほとんど変わっていない。折って綴じることはできるとしても、表紙をつけて本にする過程に、いまひとつ不満が残る。印刷は短時間に大量にできるようになったけれど、それを本のかたちにする技術はついていっていない。ちょっとしたものならともかく、自分で長篇小説を書き、プリンタで出力して製本しようとすると、途方もない労力がかかるだろう。自力でできないから、業者に頼めば良いかといえば、そうでもない。

ノートに不満を抱いていた小学生は、社会人になったばかりの頃、社内報に、オンデマンド本の出現を予見するようなエッセイを書いた。それから十数年が過ぎた頃、オンデマンド本は現実のものとなった。ただひとつ、そして決定的に異なっていたのは、現在「オンデマンド本」と呼ばれているものは、出版社の所有するデジタルデータをオンデマンドで「印刷する」本であり、印刷したものをオンデマンドで好きなように「製本する」本ではないことだ。デジタルから紙に変換するという機能を提供しているだけで、変換後の形態には、選択の余地がない。

停電になっても、パソコンが壊れても、ハードディスクが飛んでも、CD-ROMが読み込みエラーとなっても、ソフトが新しいOSに対応しなくなっても、それでも読めるというのが紙の本の大きなメリットであることは間違いない。だからオンデマンド本も、デジタルデータのままではなく、紙に印刷されていることに価値があるというのも、一理あるのかもしれない。しかし、いまや、印刷するということに対するハードルは、驚くほど低くなっている。かつてのひねくれ小学生としては、オンデマンド本の存在意義というものは、そこから先の選択肢がどれだけあるかでも問われるべきではないかと考えてしまう。

紙の本を求める理由として、電気も特別な道具もいらないというだけでなく、モノとして手元に置いておきたいというのも、大きなウエートを占めているのではないだろうか。わざわざプロが作るのだから、自分が印刷して束ねるのと大差ないのではさびしい。多少費用が多めにかかったとしても、紙や判型や、フォントや版面や、表紙の紙やデザインに、愛蔵本となりうるような選択肢は不可欠だと思う。極端な話、たとえばアパレルのデザイナーと提携した少部数発行の本があったって良いのだ。ファッションから本にアプローチする読者がいてもかまわないのではないか。残念なことに、そんな発想は、いまのところ出てきていないようだけれど。

折って綴じることと、本をつくるということの間には、微妙な距離がある。
製本は、その微妙な距離を守り続けて、最後の聖域として残るのかもしれない。あるいは、印刷の選択肢が十数年の間に飛躍的に増えたように、たとえばこれから十数年のうちに、選択肢が増えていくのかもしれない。
ともあれ、折って綴じるという行為の彼方には、まだまだ、はるかに長い道のりが続いているらしい。