シリア人が革命を起こすなんて思ってもいなかった。僕が働いていたのは、シリアの工業省だった。そこにいた若者は、全くやる気がなかった。
1994年といえば、1991年の湾岸戦争で、イラクのサダムフセインが嫌いなハーフェズ・アサドは多国籍軍に参加した。そのおかげでシリアは、アメリカから少し評価してもらって、経済も上向き加減だった。
若者たちは、公務員を辞めてもっと儲かる仕事を探し始めていた。例えば、アハマドくん。年は20歳くらいだと思う。職場に来ては、居眠りして時間になると帰っていく。
「俺は、毎晩ホテルで歌っているんだ」
公務員は、どこの国でも生活は保障されるがそれ以上ではない。
アハマッドは、アフリカ人のように色が黒かった。ホテルで歌っているなんて、カサブランカのワンシーンを僕は思い浮かべた。彼は、ゴラン高原に住んでいたが、戦争で逃げてきて貧しい暮らしをしていた。結婚するためにお金が必要らしい。でもよく聞くと、毎晩ホテルで鼻歌を歌いながら皿洗いしているとのことだった。
アハマッドが結婚する前に「お願いがあるんだ」と頼み込んできた。なんだい?と聞くと、「君の家に遊びに行っていいかなあ」という。
「もちろんだとも」
というと、実は、ビールを飲ませてほしいというのだ。イスラム教徒は、節目節目で立派なムスリムになっていく。結婚はそのステップらしい。結婚する前にビールとやらを飲んでみたいとのことだった。
バース党の独裁政権で、常に監視され、自由がない。だから彼らは政治なんかまったく関心がない。選挙はお祭り。アサド大統領が99.00パーセントで信任される。小数点以下だけが毎回変わる数字。それ以外の選択肢がないと人間は何も考えない。
パンと自由と世界の世直しのために、アハマッドが戦うなんて考えられなかった。僕が接していたのは、ほとんどが公務員だったし、近所の人たちも、政治には無関心だった。でもそれは確かに一部分でしかなかったのだろう。その当時からクルド人は、PKKを支持し、ダマスカスにもアジトを作っていた。当時はシリアはトルコと緊張関係にあったので、アサド政権はPKKの政治活動は容認していたのだ。
先日「ラジオ・コバニ」という映画をみた。実は2回目なのだけど、試写会で見た時は、疲れていたので不覚にも居眠りをしてしまったのだ。コバニは、クルド人が多く住む町で、2014年にイスラム国に占領された。その時、僕が暮らしていたイラクのアルビルにも難民がやってきたので、毛布を持っていったり粉ミルクを配ったりの支援をしていた。ただ、話を聞くだけではコバニがどうなっているかはよくわからなかった。ドローンで撮影されたコバニの町は瓦礫の廃墟と化していた。それはまるで、遺跡のように美しくもあった。戦闘機がやってきて空爆する。前線のクルドの兵士YPG(PKKのシリア版)が、米軍の空爆を助けに地上からイスラム国を追い詰めていく。
YPGの兵士が散髪しているシーン。「子どもたちは洗脳され自爆要員として使われる。残酷な戦争だった。ISの兵士たちは顔を覆って隠していた。顔がわかるのは、武器を奪うために、死体の近くまで行ったとき。そこで初めて子どもだと気が付くんだ。そんな時は、ひどく心が痛んだ。今も頭から離れない。でも戦場では戦うしかない。殺さないと後で仲間がやられるからね。時々殺した子どもたちが夢に出てくる。子どもを殺したと知ると苦しかったが殺さなければ自分が死んでいた。」
僕は、イラクでISと戦っていたクルド人の兵士(ペシュメルガ)とは何人かと話したし、知り合いが兵士だったりした。彼らは得意げに、殺したIS の兵士の死体を見せてくれた。
一方2000人のペシュメルガが戦いで命を落としている。アメリカはイラク戦争で4000人の米兵が命を落とし、帰還兵はPTSDを発症したり、自殺したりして社会問題になっているのに、クルドは、皆、平然と暮らしていたので、むしろ映画のように語る兵士はまっとうに感じた。
もう忘れ去られようとしているシリアだが、イドリブでの攻撃は激しくなっている。シリア政府はイスラム過激派の拠点を空爆している。しかし、数日前のニュースでは、シリア政府軍の空爆で倒壊した建物の下敷きになった5歳の少女が生後7か月の妹のシャツをつかんで助けようとしている映像がSNSで流れてきた。女の子はその後死亡した。赤ちゃんも集中治療室で手当てを受けている。母親は死亡した。
戦争に勝者はいない。アハマドも40代後半になっている。彼も子どもたちも20歳くらいだから徴兵に取られているかもしれないし、反体制派として戦っているかもしれない。たまらなく、アハマッドに会いたくなった。