夜の道を歩き、コンビニへ行く。温かくて甘ったるくはないというだけが取り柄の『挽き立てコーヒー』と銘打たれたコーヒーとパンを買う。部屋に戻れば、冷蔵庫にトマトとコンビーフとレタスがあるから、それでサンドイッチが作れる。仕事納めの日だというのに、なぜか新規の仕事の問い合わせばかりが立て込んで、午前中で終わると思っていた仕事が深夜にまでずれ込んでしまったのだった。 朝昼兼用で、午前中に事務所の近所のそば屋でざるそばを食ったきりなので、腹が減って仕方がない。さあ、店じまいだと思うたびに電話がかかってくるという仕打ちはまるで嫌がらせのようだと思ったのだがどうしようもない。一件一件丁寧に応対して、解らないことをネットで調べたりしているうちにこんな時間になってしまった。行きつけの居酒屋や定食屋に行くにも、年の瀬なので早じまいしていたり、納会で満席だったりするのに決まっている。というわけでコンビニなのだった。
近所の会社でこんな時期に夜を徹しての会議でもあるのか、スーツ姿の男女がコンビニにあふれていて、コーヒーマシンでコーヒーを一杯買うにも時間がかかってしまった。不思議なもので、コンビニの中に人がたくさんいると、今がすでに深夜になっていることを忘れてしまう。支払いを済ませて自動ドアを一歩出て冬の冷たい風が強く吹いている最中に足を踏み出すと、自分はいまたった一人で夜の町にたたずんでいるのだということを思い知らされる。
そんな思いに包まれた瞬間だったからか、歩道の真ん中に同じように一人だということを色濃く霧散させている男がうずくまっていることにすぐ気付いた。
私が手にしているのと同じ店名の入ったレジ袋と使い込んだショルダーバッグが転がっていて、おそらく七十半ばくらいの年齢の男が、まるで老婆のように横座りの体勢になっていて、両腕をついて小さく唸っていた。
僕は通りすがりの一瞬に人に危害を加えたりはしないだろうと判断してしゃがみ込んで男に声をかけた。「大丈夫ですか?」
男は声をかけられたことに気付かないのか、しばらくぼんやりとしていた。しかし、唸り声をあげることは止め、どこから声をかけられているのか確かめようとしているかのようだ。
それでも顔を上げるでもなく目をキョロキョロさせるわけでもないのだった。その動きの緩慢さに、私にはこの男の老いを感じ取ってしまう。私はもう一度声をかけようとした瞬間だった。
「酔ってるんでね」
それほど酔っ払っているようには見えなかったが、男はそう答えて周囲に散らばったレジ袋やショルダーバッグに手を伸ばし始めた。
「大丈夫ですか?」
私はもう一度声をかけてみる。男はやっと顔をあげて私を見る。
「このあたりは、割と物騒な奴が多いんです」
そう言われて、私は脅されているのかと思った。この男は「おれがその物騒な奴かもしれねえぜ」と言っている気がしたのだ。しかし、そうではないということは、男の曖昧な照れたような表情を見ていればすぐにわかった。男は安心していたのだった。自分が妙な男に絡まれたのではない、という事実に安堵していたのだ。
私も少し安心して、改めて男を観察した。右の頬のあたりに怪我をしているのか、小さく血が滲んでいる。
「怪我してるみたいやけど」
私が言うと、男は無造作に、私を指さしたあたりを手の甲でぬぐうのだった。すると、頬についていた血が頬全体に広がってしまった。そして、自分の手の甲についた血を見て、男は「たいしたことねえや」と笑う。
たいしたことがないなら、それでいい。そう思った私はその場を立ち去ろうと立ち上がった。
「大阪の人?」
男が私に聞く。
「そうです」
私が答える。すると、男はにやりと笑う。
「なまりでわかる」
そう言うと、男はさらに下卑た笑みを浮かべる。
「だいたい、大阪の人はおせっかいだしな」
男は、歩道にどっかりと腰を下ろした格好で私を見上げながら話し出した。
「おおきにやで」
わざとらしい大阪弁で、男が言う。
「いえ、どういたしまして。じゃ、この辺で」
そう言うと、私は男のもとを立ち去り歩き始めた。すると、男はさっきよりも大きな声で私の背中に怒鳴り始めた。
「おーい。おおきにやで。助かったっちゅうねん」
調子づいた男は、どこで覚えたのか妙なイントネーションの大阪弁を次々と私の背中に投げるのだった。
「おおきにやで!」
「しばいたろか!」
「おもろいなあ!」
「むちゃくちゃやんかいさ」
子どもの頃に見聞きした演芸番組かなにかで覚えたのか。もしかしたら、何年か大阪に住んだことがあるのか。
男は神経を逆なでするような大阪弁の声に出し続けた。私はその声を振り切るように、歩道をぐいぐいと歩き続けた。男の声はしばらくの間、小さくなっていったのだけれど、やがて後ろから近づいてきた。振り返ると、男は手にレジ袋を持ち、ショルダーバッグを肩から提げて、こちらに向かって歩いてきているのだった。
目の前の信号が赤になり、私は立ち止まった。男はぶつぶつと大阪弁を呟きながら、私の真後ろに付いた。いい加減鬱陶しくなってきた私は、信号に背を向けて、男の方に向き直った。二人の距離は思いの外近くて、私が振り返ったことに男はとても驚いた表情を見せた。
「東京生まれですか?」
私は男に聞く。
「そうだよ」
男は笑っている。
「いいですね、なまりがなくて」
「そうだよ。なまらないんだよ」
笑いながらそう答えた男に、私は言う。
「人生はかなりなまっているようだけどね」
私が言うと、男は急に目の置くに凶暴な孤独の影を見せた。
「なんだと」
男はそう言うと、コンビニのレジ袋を振り回し始めた。私は男のレジ袋を素手でグッと摑む。すると、振り回していた勢いで、男はバランスを崩す。その瞬間に私はレジ袋から手を離す。男がレジ袋を奪われまいと力を入れたのと同時だったからか、レジ袋が男の顔に向かって飛んだ。そして、怪我をしていたのとは、逆の左側の頬に新しい傷ができた。 男は顔にレジ袋が飛んできたことを歩道の上に倒れ込んでしまう。そして、男はさっき私が見つけた時と同じ姿勢になっていた。レジ袋やショルダーバッグの配置も手の付き方もまるで同じだった。ただ、男の両方の頬に血が滲んでいるというところだけが違う。
さっきも、男は私に絡んだように誰かに絡んで、今、目の前で起きたようにして路上にうずくまる結果になったのだろうか。私は男を見下ろしながらそんなふうに考えていた。そして、そうでなければこんなふうになるわけがない、と確信にも似た気持ちを持つようになっている。
だとしたら、男に絡まれ、男のレジ袋を摑んで結果的に男を路上にうずくまらせた相手は、私にそっくりな奴なのだろうか、と考える。するとまた、考えれば考えるほど、その男は私に似ているのだという確信にも似た気持ちになる。そして、もしかしたら、それは似ているのではなく私だったのかも知れない、という妙な気持ちになるのだった。(了)