コーラと缶ビール

植松眞人

 昼前の開店から終電間近の閉店まで、客が引きも切らない中華料理屋にやってきた。乗ってきた自転車を停めて、重めのドアを開けると、もう二時近くだというのに、十以上ある四人がけのテーブルがそこそこ埋まっており相席となった。
 この店には仕事を始めてから通い始めた。最初は同じ会社の先輩に連れてこられたのだが、その会社を辞め、住まいも職場も離れているのだが、ときおり思い出しては昼飯を食べに来ている。今日も打ち合わせた先方が、お昼でもどうですか?というのを断ってやってきたのだ。
 仰木はいつもの炒飯を頼む。叉焼がごろごろと入った炒飯は人気メニューで、この町を特集する雑誌には必ず掲載されるほどだ。ただ、量が多いので、三十代半ばになった最近ではいつも「炒飯、少なめ」と注文する。それでも、炒飯を頼んでしまうのは、やはり叉焼の入った食感と塩っ気のある味付け、そして、絶妙な卵の混ざり具合に、パラパラすぎず、ベタベタすぎない絶妙な仕上がりがやみつきになってしまうからだ。
 いまも客の大半がこの炒飯をガツガツと食べていて、数少ない女性客の一人は大盛りを頼んでいる。
 仰木はおそらくラーメンスープに、味を加えて出していると思われる小さなスープを啜りながら、炒飯にレンゲを突っ込んでいる。崩れた炒飯の山の割れ目からは湯気が上がり、油と醤油の焦げた香りが鼻先に踊る。
 その瞬間、仰木に訪れた至福の時間をかき消すかのような大きな音がカランカランと響く。

 新しい客が入ってきたようだ。仰木は炒飯を頬張りながら背中で声を聞く。
「何名様ですか」
 と店のおばさんが聞くと、
「二人です」
 と男の子の声がする。
 あ、子どもだ、と思う。同時に、子どもが平日の昼間に中華料理屋に入ってくるのはなぜだろうと思う。そして、今がまだ八月の終わりで、夏休み期間であることに思い至る。

「暑いですねえ」
 と今度は、母親らしき女が声をかけながら入ってくる。先に入ってきた男の子が奥の席に先導する。
「ご注文が決まったら、言ってくださいね」 店のおばさんがそう言い終わらないうちに、男の子が言う。
「ネギラーメン、ありますか?」
「ネギラーメン、ありますよ」
「お肉入ってますか?」
 小学男子がまるで大人のような口ぶりで、店のおばさんに聞いている。
「肉というか、叉焼が一枚入っていますよ」
 おばさんもだんだん大人相手に話しているような口調になってくる。
「海苔は?」
「海苔は一枚入ってますよ」
「あっちゃん、それで良いんじゃない?」
 母親が口を挟む。
「おれ、チャーシューメン好きなんだよなあ」
 あっちゃんと呼ばれた小学男子は調子に乗りやすい若手営業マンのように聞かれもしないのに言う。
「でも、普通のラーメンにも叉焼一枚入ってるんですよね」
 あっちゃんの質問に、おばさんは笑顔でうなずく。
「じゃあ、この子は普通のラーメンをください。私は炒飯を少なめでください」
 そんな注文の仕方をするということは、母親は何度かこの店に来たことがあるのだろう。息子は初めてなのか。それとも、何度も来ているのに、改めてラーメンの中身を確認したのか。仰木はそんなことを思いながら炒飯を口に運ぶ。どちらにしても、母子して話がくどい。くどい話の中、母親はあっちゃんに話しかける。
「あっちゃん、コーラいらないの?」
「コーラいいね!」
「じゃ、コーラも」
 おばさんが小さな用紙に注文されたものをメモしながら厨房にも同じ内容を通す。
「あ、すみません」
 思い出したように、母親がおばさんを呼び止める。
「缶ビールありますか?」
「缶ビールないのよ。瓶ビールしかおいてなくて」
 大人の会話にあっちゃんが口を挟む。
「ママ、ほら外にビールのケースがあったじゃない。あれ全部瓶だったよ」
 得意げなあっちゃんだが、瓶ビールのケースがあったからといって、缶ビールがないということにはならない。他に缶ビールを保管するところがあれば、それで話は終わってしまう。それでも、母親はあっちゃんの観察力の鋭さに笑みがこぼれる。
「ほんとうねえ。瓶ビールのケースがあったわねえ」
「ごめんなさいね。缶ビールなくて。どうします?瓶ビールにする?」
「いえ、それならいいです。はい。大丈夫です」
 結局母親は、ビールを注文せずにあっちゃんのコーラだけを頼む。
「おれ、コーラも好きなんだよなあ」
「そうよねえ」
「コーラと叉焼の入ったラーメン!最高だよね」
 なぜ、缶ビールなら飲んで、瓶ビールなら飲まないのか。仰木には意味がわからないのだった。わからないまま仰木は母子が気になって仕方がない。どうして、こんなにこの母子が気になるのか。声がほんの少し大きいのだ。そして、あっちゃんの言葉遣いがほんの少し大人びているのだ。
 仰木は、惜しいなあ、と感じている。あっちゃんが、まだ幼稚園児なら、この大人びた言葉遣いが逆に可愛らしく思えたかもしれない。しかし、あっちゃんはもう小学校も真ん中あたりだ。学校の勉強が出来る出来ないもだんだんわかってきた頃だし、女の子のことなんてとっくに意識している年頃だ。つまり、もう可愛くない。逆に憎たらしい。そのことに母親だけがまだ気付いていない。
 仰木が炒飯少なめを食べ終えた頃、母と子の前に注文した料理が運ばれてきた。あっちゃんが必要以上に歓声を上げて、ラーメンの盛り付けを絶賛している。特に大きめの海苔がどんぶりの端からはみ出すように入れられているのがお気に入りのようだ。
「ねえ、ママ!この海苔の配置の仕方!才能あると思わない。写真撮って!インスタ映えだよ!」
 言われた母親はさっきまで、自撮りモードで髪型を直すために使っていたスマホをラーメンに向ける。
 なんだか馬鹿らしくなって来る。炒飯を食べ終えた仰木は店を出た。停めてあった仰木の自転車を出そうとしたのだが、ピカピカの真新しい子供用の真っ青な自転車がかぶせるようにもたれかかっていた。自分の自転車を出すためには、その子供用の自転車をいったん外に出さなければならなかった。
 邪魔くさそうに仰木は「たかだあつし」と書かれたあっちゃんの自転車に手をかけて、スタンドを起こした。スタンドは仰木の自転車の車輪のスポークの間に入り込んでおり、雑に重ねられていた。それを丁寧に引き出し、外に出そうとするのだが、今度はバッテリー駆動の電動自転車が邪魔をしている。そちらの自転車には「高田」と名字だけが書かれていて母親が乗ってきたものらしい。
 可愛げのない小生意気な高田の母とあっちゃんの自転車に苦慮している自分に、仰木は腹立たしい気分になった。もうすぐ九月だというのに、まだまだ痛いくらいの陽射しが容赦なく照りつけている。そのことも、仰木をいらいらとさせた。あっちゃんの自転車を動かし、自分の自転車を動かし、母親の自転車を元通りにすると、仰木はすっかり汗まみれになっていた。
 自転車置き場からは店の大きな窓ガラスが見え、その中には嬉しそうに大声で話しながらラーメンと炒飯を分け合って食べる高田母子の姿が見える。声をオフにして見るあっちゃんは、表情だけでも充分にくそ生意気だ。 ラーメンを食べる合間にコーラを嬉しそうに飲むあっちゃんの姿に、「静かにしなさい」「食事中にコーラなんて飲むもんじゃない」と母親が言わなくて、いったい誰が言うんだ、と仰木は思う。そして、こんな母親や子どもが山ほどいるこの国は、もうだめなのかもしれないと仰木は本気で思うのだった。そう思い始めると、一瞬にして仰木の身体を血が巡った。自分でも湯気が見えるのではないかと思うほどに腹が立った。さっさと行こう、と自転車を押すと、羽織っていたシャツがあっちゃんの自転車のハンドルに引っかかってしまう。シャツが引っ張られて、仰木は自分の自転車のハンドルを放してしまい、自転車を横転させてしまう。
 仰木は強くため息をつくと、店内の母親とあっちゃんを眺め、自分の自転車を起こすために腰をかがめた。すると、目の前にあっちゃんの自転車のタイヤがあり、空気を入れるノズルが見えた。仰木は何も考えずに、ノズルにかぶせられたプラスチックの小さなキャップを外し、根元のリングを緩めた。タイヤに入れられていた空気が勢いよく漏れる。あ、と仰木は思う。自分は腹立ち紛れに何をしているのだろう、と目の前のあっちゃんの自転車を眺める。空気が漏れる音が、思いの外大きく、シューッと響いている。リングを戻そうと思った時、通りに若い男が入ってきた。視線がしっかりとこちらを向いている。おそらく、この店に来た客なのだろう。それをきっかけに仰木は立ち上がり、自分の自転車を押しながら男とすれ違う。背後からはまだ空気が漏れる音が響いている。いや、先ほどよりも音が大きくなった気がする。若い男の客は空気が漏れていることに気がつくだろうか。途中から響いてきたのではなく、最初からシューシュー言っているとそれほど気付かないかもしれないな、などと考えながら、一刻も早く通りを抜けて角を曲がらなければと仰木は小走りになる。

 途中、自動販売機でペットボトルの水を買い、ひと心地つくと仰木は初めて先ほどの店の方を振り返った。別段、男が追いかけてくる様子も、食事を終えた高田のあっちゃんが「パンクしてる!」と騒ぎながら走ってくる姿も見えない。
 知らないうちに、逃げるように走っていたのか。汗だくだった。自動販売機の水は補充されたばかりなのかそれほど冷たくはなかったが、それでも、生きた心地がした。
 そんなことを考えていたからか、思いの外、気持ちが惚けているのか、仰木の口の端から水が流れた。冷たい水の筋が頬から首筋へと続いた。ほんのわずかな細い水の筋が身体を走っただけなのに、仰木はぞっとして黙り込んだ。周囲がふいに音を失ったかのように静かになったような気がした。
 どうして、くそ生意気な母親と小学生の息子が昼間の中華料理屋にいたことがあんなに気に障ったのか。あっちゃんの話し方か。母親が缶ビールを頼まなかったことか。それとも、自分の自転車にあっちゃんの自転車がもたれかかっていたことか。いくら考えても、自転車の空気を抜いてしまうほど腹立たしい出来事だったとは思えない。
 仰木はペットボトルの水を空にして、再び自転車を押して歩き始める。しばらく歩くと、急な坂道にさしかかる。また汗が噴き出してくる。辛いなあ、と思った瞬間に、そうか、と声が出た。あっちゃんがくそ生意気なだけではなく、あいつが自分よりも確実に後の世の中に生き残っているということが嫌なのか、と仰木は考えた。いや、その通りだ、という確信はまだなかった。しかし、あいつの張りのある頬が赤く紅潮しながらラーメンを啜っている様子が思い出されると、さっきと同じくらいの苛立ちを感じるのだった。そして、そんなことに腹を立ててしまった自分に、仰木は動揺していた。
 動揺を打ち消すために、仰木は想像してみた。自転車の空気が抜けて、パンクだと思ったあっちゃんがしたり顔でくそ生意気な一言を発する場面を想像してみた。
 しかし、そんなときに限って、あっちゃんはワアワアと子どもらしく愛らしい顔でいつまでも泣いているのだった。(了)