とある私鉄沿線のとある駅で下車した。
八月になったばかりの空は高く真っ青で、こちらの思惑を見透かすくらいに爽やかに見えるのに空気だけはまとわりつくようだ。
「エアコン入れて、冷たい飲み物を用意して待っています」
仕事の打ち合わせの相手から、そんなメールが来ていたからだろう。高い湿度も各駅停車の駅と駅の中間にあるという立地も、冷たい飲み物を楽しむための下準備のようにも感じられるのだった。
駅で降りてから、さっき走ってきた線路に沿って半駅分戻るように歩く。高架下の商店街を三ブロックほど過ぎて、やっと知人の事務所が入っているマンションが見えてきた。さあ、エアコンの効いた部屋で冷たい飲み物で人心地つける、と思った瞬間だった。
「お久しぶりです」
楽しげでもなく、こわごわでもなく、妙に思いきった声が聞こえる。長い時間、そこで待っていたことが瞬時にわかるような立ち方をしている。私は相手の顔を見る。知っている顔だ。十年以上も前に袂をわかった相手だった。二十年ほど一緒に働いた顔だった。そして、もうしばらく会うこともないだろう、と思うほどに翻弄された顔だった。その顔を笑顔にするために、様々な策を練り、実行し、裏切られ、また策を練りということを繰り返し、結局、そんなことじゃ私は笑顔になれません、とでも言うように半笑いを浮かべた表情で「辞めます」と言った顔が、十年という時間を一気に超えて「お久しぶりです」と強張った笑みを浮かべている。
「お久しぶりです」
もう一度、相手は言う。私が最初の一言に返事をしなかったことで、今度はおずおずと言う。私はおずおずとした物言いに接した瞬間に、話すことはない、と心を決める。十年近く前に、同じようにこの顔を前にして思ったことを思い出す。この顔に、この物言いに、話すことは何もない。
「一言だけ、謝りたくてきました」
謝ることはたくさんあるはずだと、私は十年前よりも皺の濃くなった女の顔を私は見ないようにする。そして、とにもかくにも、目の前から消えてほしいと思う。できる限り早く消えてほしいと思う。早ければ早いほどダメージは少ないはずだと私は思っている。できるだけ平静を装って、声をふるわせることなくフラットな声を出そうと試みたのだが、結局は絞り出すような声になってしまうのだった。自分の声は思いの外大きな声だった。
「もう、いいから」
私がそう言うと、相手の女は何か言いかける。私はその女から発せられる言葉を何一つ聞きたくはなかった。
女は十年前まで一緒に仕事をしていた事務員だった。小さな文具商店を経営していた私は、ちょっとしたデザインも兼務するその女と、女が辞めてしまうまでの二十年ほどの期間、仕事をしていた。
女は、地方の名士の娘だった。才能があるのかないのか、はっきりしていればよかったのだが、女には中途半端な才能があった。地方の絵画展に入賞する程度の画力はあった。両親は彼女を溺愛し、きちんとしたしつけもしないまま、世の中に送り出した。その結果、女は会社に慣れてくるにしたがってわがままになっていった。
自分の意に添わない仕事は後輩に押しつけ、資格を取りたいからと長期休暇を取り、子供ができるからと会社を辞めていった。しかし、それから一年ほどした頃、直接にではなく、人を介してもう一度働きたいと打診してきた。
私は私でたまたま前職で手に入れた仕事のルートに沿って仕事をしていただけで、経営者としての自覚も能力もなかった。ちょうど人が足りない時期だったこともあり、また、一度は一緒に仕事をしたのだからと情にほだされてしまい再雇用したのだった。そして、一年も経たないうちにまた女は事務仕事は嫌だと言いだした。デザインの仕事かイラストを描くような仕事だけをしたいと言い出したのだった。
暴言を吐き、身勝手に動き回り、様々な遺恨を残して結局彼女は会社を辞めた。
そんな女が十年の時を経て謝りたいこととはなんだろう。謝りだしたら、どれだけ時間があっても足りないはずだ。そして、そもそもどうして女はここにいるのだろう。私は混乱しながらも、女がここに来た理由に行き当たる。
ここに来る前に、「今日は打ち合わせ」とSNSでつぶやいたことにしか思い至らない。それ以外に、女が私の動向を知る術はない。そう思うと、前回、知人の事務所に来たときには「数年ぶりの再会!高田さんが事務所に来てくれました!」と、知人がSNSに投稿していて、私がそこに「次回は打ち合わせにおじゃまするよ」とコメントを書き込んでいた。
充分だと思った。女がそれを見ていれば、今日、私がここに現れると推測するには充分すぎる。
ふいに、女の立っている足下に四角い升目が見えた気がした。そして、その升目は私の足下にもあり、世界がグリッド状の升目で覆われた。建物の中も屋外も、すべてが四角いグリッドでデザインされ、私たちの世界はすべてが見透かされていた。どんなに隠れていたくても、すべてをネットワークすることで生まれる利益を享受したいという欲望には勝てない。メリットを得ながら自分だけ隠れているなどという芸当はできない。
仮に自分がSNSをやらなくても、誰かがアップした写真に自分が写っていてタグ付けされる。位置情報も写真にしっかり埋め込まれていて、行動範囲と条件はしばらくタイムラインを眺めていれば馬鹿にだってわかる。
そんなふうに世界はデジタルで丸裸だ。そして、丸裸にされている自分を楽しんだり、人を丸裸にするのを楽しんでいるうちはどんなシステムもメディアも輝いて見える。
しかし、待ち伏せ女が黒い液体をほんの少しだけネットワークの流れの中に垂らしていく。その瞬間に私のネットワークは輝きを失い、黒い煤けた灰でいっぱいになる。
「一言だけ謝りたかったんです」
女はまたそう言った。義務感と自己愛だけで生きてきた人特有のせっぱ詰まった物言いだ。私は声を落として言う。
「何について謝りたいのか知らないけれど、いま君が何かについて口を開くと、また何年後かに、その一言について謝らないといけなくなる気がするので黙って帰ってくれないか」
しかし、女は理解してくれない。「そうじゃなくて」「わたしはただ」という言葉を繰り返している。いくらデジタルネットワークが発達しても、アナログな執拗さには勝てない。やがてアナログな執拗さはデジタルネットワークを駆使して世界を巡り、その自己愛を世界中に振りまきながら巨大化する。
そんなイメージを浮かべてしまい、私は本気で女のことを恐ろしいと思ってしまう。
そして、いったん恐ろしいと思った女は私の中でどんどん大きくなり、「一言だけ謝りたい」という女の声さえ聞こえなくなる。
私は女を振りきるように、知人の事務所に駆け込む。汗だくで駆け込んできた私に知人は驚いて、「どうしたんですか」と声をかける。私は息が切れて声も出ない。荒く息を吐きながら、知人の事務所の窓から外を見る。
デジタルネットワークを駆使して、私を待ち伏せしていた女がうなだれて立っている。その足下のグリッドはところどころに綻びが見えるようだ。(了)