携帯電話が鳴ったのはちょうどバイト先のホームセンターの前だった。シフトが入っていなかったので、久しぶりに食料品を買いだめしておこうと隣町へ向かって車を走らせていたときだった。
車をホームセンターに入れて、電話に出ると声の主は「今日、はいれる? ねえ、はいれる?」と聞いてきた。話の筋が飲み込めないのと、声が慌てふためいていて、誰だかわからなかったので、最初木立(こだち)は間違い電話だと思った。
「すみません。間違いだと思うのですが」
木立がそういうと、電話の向こうの声は、
「木立でしょ?」
と、いつもの林さんの声で聞いた。
「あ、そうです。どうしたんですか」
「とちったのよ。バイトのシフト表。それで、今日、誰もいないの」
「誰もいない?」
何のことかわからずに木立が繰り返すと、明らかに少しいらついた様子で林さんは、
「だから、私がシフト表の記入をとちったのよ。で、今日来てみたら、誰もいないの」
「あ、そういうことですか」
「そういうことですかじゃないわよ」
そこまで聞いて初めて、最初の声が慌てふためいていた意味がわかった。
「ねえ、今日、はいれる?」
「わかりました。はいれますよ」
木立が答えると、林さんはとても長く行きを吐き出した。身体のなかのいろんなものを長く一息で吐き出してしまいたい、という感じがした。
「いま、どこにいるの?」
「店の前です」
そういうと、木立は店の従業員入口のほうを見た。すっとドアが開いて、携帯電話を耳に当てた林さんが木立のほうを見ながら出てきた。
新人用にストックされていた制服に着替えてフロアに入ると、なぜかクビになったはずの中村くんがいて、木立を見つけると手を振ってきた。その仕草があまりに自然だったのと、笑顔がとても爽やかだったので、思わず木立も手を振り返してしまったのだけれど、手を振りながら、あ、間違った、と顔が赤くなっていることに気づいた。すると中村くんは私が久しぶりに会って恥ずかしがっているのだと勘違いしたのか、まるで足元にセグウェイでも付けているかのように自然に近寄ってきた。
「お久しぶりです。元気でしたか」
「元気だよ。というか、なんでいるの?」
木立が聞くと、中村くんは一瞬、ホームセンターの天井を見上げてから、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。
「だって、あんなに慌てふためいてたら放っておけないじゃないですか」
「林さんから電話がかかってきたの?」
木立が聞くと中村くんは、小さく「あっ」と声をあげたのだけれど、それはちょっとわざとらしくて、何かをバラそうとしていることがわかった。
「電話じゃなくて、顔を見てたからね」
そういうと、中村くんは木立の顔をのぞき込むようにじっと見つめた。
「顔を見ていた」
木立は中村くんの言葉を繰り返した。林さんの慌てふためいた声を聞いてから、ずっと時間がふわふわとしている。そして、いま中村くんの口から出た、顔を見ていた、という言葉が急に質量をもって木立のお腹のなかに落ちてきて、息ができない感じになった。
「ここのバイトをクビになった日から、ずっと林さんのところにいるんだよね」
中村くんはまるで、自分が盗もうとしたマキタの工具がまた入荷したんだよね、という感じで話すのだが、木立にはもう彼の声が自分を避けているかのようにとても小さくしか入って来ない。そこに、林さんがやってきた。林さんは私を見てほっとした表情を浮かべたのだけれど、すぐに中村くんがいるのを確認すると、また表情を引き締めた。そして、木立と中村くんの前にやってきて、話始めた。
「おはようございます。今日は急に申し訳ないです。ちょっと不手際があって、人が少なくてすみません。でも、平日なのと、後から応援も来てくれるのでなんとかなると思います。ただ、今日から始めるイベントがあって、どうしてもアルバイトを揃えなくてはいけなくて…」
林さん曰く、今日は家電メーカーが新たに開発した家庭用の調理器具の発売イベントがあるのだという。大手の販売店ならメーカーからたくさんの人が派遣されてきて、店舗のスタッフはセッティングをするくらいなのだが、この店は中堅どころなのでそういうわけにもいかない。目標を設定され、しかも、メーカーからはほとんど人がこない。今日は木立と中村くんがいるだけだ。店舗入口を入ってすぐのところにあるスペースには昨日のうちに運び込まれた大型のテレビがあり、そこに新しい調理器具の広告動画を流すらしい。林さんに言われ、中村くんが油をほとんど使わない唐揚げをつくり、木立がそれをお客様に配るという段取りが決まった。
説明だけをすると林さんはほとんど木立とも中村くんとも目を合わせないで、どこかへ消えてしまった。
「ああいうところ、かわいいよね」
中村くんは木立に言う。木立は何も答えない。
まだオープンまで少し時間はある。木立は中村くんに聞きたいことが山ほどあったけれど、まずは今日を乗り切ろうと、中村くんのいうことはすべて受け流すことに決めた。そして、まだ時間があるというのに、勝手に唐揚げをつくり、一人で味見を始めた中村くんを無視して、チラシやカタログ、商品の在庫チェックをし始めるのだった。いつも通りのことをしていないと、なにか失敗をしでかしてしまいそうだったからだ。
木立は大型テレビの横に置いてあったDVDのディスクをプレイヤーに挿入してみた。うんともすんとも言わない。おかしい。木立はDVDを入れ直してみたり、ディスクに傷がついていないか見てみたりしたのだが、原因がわからない。散々、慌てたあと、急に思い立ってテレビの裏側に回ってみると、コンセントが抜かれていた。ほっとしてコンセントをいれようとする木立を隣で中村くんが笑ってみている。
「朝来たら、めちゃくちゃ大きな音でかかってて。あんまりうるさいもんだから、コンセント抜いちゃったんですよ」
「コンセント抜かなくてもスイッチを切るとか他に方法があるじゃないですか」
木立が言うと、中村くんはさっきよりも大きく笑っている。
「なにか、おかしい?」
「ほら、ぼくたちの世代は、テレビ消えてたらコンセントが抜けてるのかあ、と思って裏側見たりするけど、木立さんとか林さんの世代って、テレビが消えたりするとまず叩きますよね。面白いなあ、と思って」
「叩かないよ」
「さっき叩いてましたって。もう忘れたんですか」
そう言って笑う中村くんに、木立は一瞬、カッとしたのだが次の瞬間には身体の力がすっと抜けてしまい、中村くんには何を言っても無駄なのだと思った。そして、もうこいつとは話さないという気持ちを確かめるように強くテレビのコンセントを差し込んだのだった。(続く)