猫を殺したかもしれない。

植松眞人

 当時の市役所の駐車場は、まだゲートなどもなく用事のある市民なら誰もが自由に利用できるようになっていた。時間の制限もなかったので、駐車場を持たない人たちがマイカーの駐車場として、車を停めるということもあった。
 今となっては信じられないだろうけれど、一九八〇年頃はまだ軽自動車を購入するときに車庫証明を必要としていなかったと記憶している。青空駐車という言葉がまた日常的に使われていて、
「どこに車を停めているの」
「いや、お金がないから青空駐車だよ」
という会話が成立していた。
 もちろん、軽自動車よりも大きなサイズの乗用車には購入時に車庫証明を取ることが義務づけられていた。しかし、僕は親をだますようにして初めての車を手に入れた時には家に駐車場はなく、隣町に住む祖母の家の庭を車庫として申請していたのである。そのため、実際に住んでいる自宅には駐車場はなく、近所の神社の駐車場やこの出来たばかりの市役所の駐車場に勝手に車をとめてしのいでいた。
 このやり方は「車庫飛ばし」と呼ばれていて、厳密には違法だった。しかし、普通にみんながやっていて、中古車販売店の営業マンも「飛ばせる車庫があれば、私が手続きしますよ」と言ってくれて、僕は車を手に入れたのだった。
 まだ二十歳になったばかりの僕は車を運転することが楽しくて仕方がなかった。無茶なスピードを出したり、激しく山道を攻めたり、ということにはまったく興味はなかったが、ただ自分でハンドルを握ってアクセルを踏むという行為が楽しかった。窓を開けて、風を受けながら車を走らせることが楽しくて仕方がなかった。
 二十代の初め頃、僕は映画やドラマの撮影現場で助監督や制作進行をしていた。職場である京都の撮影所やテレビ局のスタジオに行く時には、いつもマイカーだった。サンキューセールの目玉商品として売られていた三十九万円の日産バイオレットという地味な乗用車は、サスペンションがへたり気味だったが、そんなことはまったく気にならなかった。
 その日も深夜、確か零時を少し回ったあたりに、僕は市役所の駐車場に車を滑り込ませた。市役所がこの場所に作られた頃は、深夜に車を停めている人など誰もいなかったが、次第に自由に車を停めておけるということが知られてくると深夜にもそこそこの数の車が停められるようになった。自分でも身勝手に使っていながら、入口にゲートが付けられ出入りが制限されるようになるのも時間の問題だと僕は思った。
 その日は、朝から細かな撮影が続き、気疲れしていた僕は帰り道の高速のインターチェンジで温かなうどんを食べたあと、とても強い眠気に襲われていた。それでも、煙草を吸い、ガムを噛みながらなんとか市役所まで帰ってきた。いつもの場所に軽トラックが停められていたので、少し入口側のいつもは停めない場所に車をバックで駐車させた。上着を羽織り、荷物を持って車の外に出ると、寒くて息が白くなった。車のキーを閉じるのに手間取って、一度鍵を落としたりしている時に、ニャアニャアという猫の声が聞こえた。猫の声は激しく数回聞こえた後、消えた。僕はしばらく耳をすませていたのだが、猫の声は聞こえなかった。どこで鳴いていたんだろう、と思いながら僕は家に帰ろうと車を離れた。すると、またニャアという声が聞こえた。さっきよりも激しく、大きく、とても近くから聞こえた気がした。僕は車の奥の方から聞こえた気がして、自分の車の周りをくるりと見てまわった。猫は見つからなかった。僕はどこだろうと思いながら、仕事の疲れもあって猫を見つけることを諦めて、帰ろうとした。するとまた、猫の声がする。僕は荷物を置いて、ニャアという声がする方に歩いて行く。僕の車の後ろの方だ。何もいない。僕は膝をついて、車のリアタイヤのすき間から車体の下をのぞき込んだ。ニャアという鋭い声がして、何か黒い塊が見えた。駐車場の街灯がアスファルトを照らし、その反射した光が黒い塊をうっすらと浮かびあがらせた。黒い猫だった。ニャアと鳴いた瞬間に大きな口を開けているのが見えて、真っ赤な口が見えた気がした。
 僕はその表情に気圧されて立ち上がった。自分が寝ていた場所に僕が急に車を止めたので怒っているのだろうと思った。犬猫がもともと得意ではなかったので、その怒ったような表情と声が怖くて、僕はその場を離れた。いったん顔を見られたからか、猫はさっきまでよりも激しく鳴き始めた。
 僕はときどき車を振り返りながらも駐車場を出て自宅への道を急いだ。猫の声は次第に聞こえなくなり、一つ目の角を曲がるとただ夜の静寂だけがあった。その時、僕にはふいにさっきの猫の映像が浮かんだ。あの猫は大きな声で鳴くときに真っ赤な口の中を見せていたような気がする。しかし、猫の口のなかというのは普通、真っ赤だっただろうか、と僕は考えた。実際に猫を飼ったことがなかったので、考えてもはっきりとはわからなかった。そして、もう一つ疑問が浮かんできた。なぜあの猫は怒りながらも僕の車の下から逃げ出さなかったのだろう。
 僕は疲れた頭で、そんなことを考えていた。考えながら、ひとつの答えが見えた。僕は猫を自分の車で轢いてしまったのかもしれない。空いた駐車場のスペースで、安心して眠りこけているところに、僕が車を滑り込ませて、あの黒猫を引いてしまったのかもしれない。そんな思いが一瞬浮かんできた。だからこそ、あの猫はその場から動かず、ただ口をあけてニャアニャアと声をあげていたのではなかったのか。そして、動けないほどの怪我をしていたからこそ、口の中に血が溢れていたのではなかったのか。
 僕が自宅にたどり着いたころには、この考えは確信のようなものに変わっていた。しかし、僕は疲れていた。そして、何よりも怖かった。猫を殺してしまったかもしれない、という考えがとても怖かった。駐車場は暗すぎて何もかもがはっきりとは見えなかった。けれど、轢いてかもしれない、という手ざわりのようなものが、ふいに見上げた空と見下ろしたアスファルトの間から、粒子のように僕の掌に降り積もり、消えることはなかった。寒さをしのぐように、手を擦り合わせながら息を吹きかけると、その感覚はますます強くなった。きっと僕が猫を轢いてしまったという事実は、確実ではなくても、まったくの虚実でもないという妙な感覚になった。
 その夜、僕は風呂にも入らずぐっすりと寝てしまい、昼前に起きたときにはすっかり、そのことを忘れてしまっていた。もう一度思い出したのは、昼過ぎに市役所の駐車場に向かった時だった。そして、僕は昨日の夜とは違い、あれはきっと猫がただ居場所を奪われそうになって怒っていただけだと考えようとしていた。駐車場に行ったら、決して車体の下などのぞき込まず、そのままエンジンを掛け、そのまま立ち去ろう。僕はそう心に決めて駐車場に向かった。
 市役所の駐車場に到着すると、これまでには見たことがない光景があった。警察官が一人と、役所の職員が一人。二人の男が駐車場で車を出し入れしようとするドライバーに声をかけていたのだ。僕はこれまでの違法駐車をとがめられるのではないかと思い緊張した。しかし、仕事があるので車を出さないわけにはいかなかった。できるだけ平静を装って警察官と職員が立っている出入り口を通過しようとした。すると、職員が僕に声をかけてきた。四十過ぎくらいの温厚そうな男性だった。それほど高くはないけれど、ちゃんとしたスーツを着ていた。
「申し訳ありません。この駐車場はいつもご利用ですか?」
 職員はそう聞いた。
「はい。わりと」
「そうですか」
 と今度は警察官が答えた。
「実は、来月からこの駐車場が有料になるんです」
「ああ、そうなんですね」
「で、ちょっとだけ利用状況を調査していまして」
 と今度はまた職員が声をかけてきた。
「今回のご利用時間はどの程度でしたでしょうか」
 そう聞かれて僕はほんの少しだけ考えて、
「そうですね。住民票を取ってきただけなので、三十分くらいかな」
 そういうと、職員がメモを取り、二人は僕に頭を下げて、ご苦労様でした、と言った。僕も二人に軽く頭を下げると、ご苦労様でした、と声をかけた。
 僕は二人から離れて、昨夜、自分の車を止めた場所を眼で探し、そこに向かって真っ直ぐに歩いた。運転席のドアを開け、乗り込み、エンジンを掛けて前を見ると、二人のうち警官だけが僕を見ていた。僕はゆっくりと車を出した。二人から離れた方の出入り口に向かうためにすぐに左折した。すると、助手席の窓の向こうにさっきまで自分が車を停めていた場所が見えた。僕はその場所をじっと見た。特に昨夜猫が鳴いていたはずの場所を見つめた。アクセルを緩めて、僕はブレーキを踏んだ。そこには何もなかった。黒い猫の死骸も肉片のようなものも、血だまりのような物もなにもなかった。僕はハンドルを握ったまま、長いため息をついた。運転席側の窓をコツコツと叩く音がした。さっきの警察官が立っていた。僕が窓を少し開けると、彼は笑顔を浮かべながら、どうかしましたか?と聞いた。僕は、いえ大丈夫です、と答えて窓を閉じた。ゆっくりとアクセルを踏み入れ、少しずついかにも普段から安全運転をしているかのような慎重な運転で、僕は駐車場の出口を通りかかった。バックミラーのなかで、警察官も市役所の職員も頭を下げていた。
 僕は駐車場の外を出て、バス通りに車を進めながら、昨日見たことは僕の思い違いで、ただ猫が怒っていただけなのだと思った。その証拠に猫の死骸も血だまりの後もなかったじゃないか。そう思うととても気分が軽くなった。
 しかし、あれから三十年以上の月日が流れたのだが、「あの時、猫を轢き殺したのかも知れない」という思いが僕の中から消え去ってしまうことがない。(了)