京都の大学へ通いたい、と息子の蒼吉が言い出したのは高校生活もあと半年あまりとなってからのことだった。
井筒はさほど驚きもせず、ただそうなった場合の算段を素早くして、そうか、とうなずいて息子を送り出す気持ちを一息に整えた。しかし、母親である恵美はとても驚いて、京都、とつぶやいたきり黙り込んだのだった。
結局、恵美がもともと希望していた国公立大学であったことと、学費の算段もなんとかできると踏んだところで、蒼吉は希望通りの大学を受験することになった。
晴れて入学が許可されて、蒼吉は三月の終わりに意気揚々と東京から京都へと旅立った。
みなが「寂しいでしょう」と恵美に声をかけるのだが、井筒はどうして母である恵美にばかり声がかかり、父である自分に声がかからないのか不思議に思うのだった。しかし、実際に蒼吉の不在が堪えていたのは恵美だった。
蒼吉が楽しみにしていたテレビ番組が夕食時に始まったりすると、じっと画面に見入って黙ってしまい、「蒼吉がよく見ていた番組だな」と井筒が声をかけると、「さあ」とわざとらしく会話をそらしたりした。
五月の連休が目前に迫った頃になって、恵美はしだいに蒼吉のことを普通に話題にするようになった。蒼吉がいないことに恵美も慣れてきたのかと思い、「本当は君も蒼吉がいないことが寂しくて仕方がないんだろう」と井筒は軽口を叩いたりするようになった。そのたびに、恵美が「そんなことありませんよ」と強がって見せたりするのも、新しい家族の過ごし方のようで微笑ましく思えるのだった。
しかし、蒼吉がスマホで「連休には戻らない」というメッセージを送ってきた日の夜、井筒はそうとは知らずに、すっかり気持ちを許して蒼吉の不在を話題にした。つい、料理を多く作ってしまった恵美に、「蒼吉の分まで作ってしまったんだね」と言った瞬間に、食卓へ今まさに置こうとしていた大皿のお煮物料理を恵美は放り出すようにしたのだった。大皿は割れることはなかったが、ドンッと大きな音を立てた。自分でもその音に驚いたのか、しばらく無言で立ち尽くしていたのだが、やがて食卓の隅に置かれた台ふきんで飛び散った煮物の汁を拭き、恵美は食卓に座った。そして、一言も発しないまま黙々と白米と煮物を交互に食べ続け、やがて滂沱たる涙を流し始めた。
井筒はその姿に驚き、いったいどれだけ蒼吉が恋しいのかと思ったが、もしかしたらほんの少しでも感じている寂しさを知られたことの悔しさからくる涙なのかもしれないと思い直すのだった。しかし、だからとって井筒自身、平静を装って食事をすることが出来ず、やはり少し怒った様子でうまい具合に煮込まれた大根を箸で刺して口に運び、それほど美味くはないという顔をしてみせるのだった。(了)