「その頃も旅をしていた」という一節で始まる小説と出会ったのは、確か高校の終わりだった。開高健の『夏の闇』の書き出しに、私は強く心を鷲掴みにされ、日が暮れるのも忘れて読み耽った。高校生が読むには少し大人びた内容で、男女が食べて寝て爛れたような時間を過ごすだけのストーリーだった。いや、だけではなかった気がするが、当時の私にはそれ以上の機微をどう言葉にすればいいのかがわからなかった。
しかし、『夏の闇』という小説に異様な熱量を感じたことと、同時に冒頭の「その頃も旅をしていた」という一節に引きずられるように私はその長編小説を読み終えたのだった。
それから、私のなかで旅という言葉のもつ意味が大きく変化したような気がした。登場人物の男女がなんの目的も持たずに、ただ身体を重ね、愛と呼ぶには淀み切った澱の舞う感情を振りまきながら生きているさまが旅なのだと強く印象づけられてしまったのだった。
とは言え、まだ高校生だった私がどこまでこの小説をしっかりと捉えていたのかはわからない。わからないけれど、確かに「旅」という言葉がくさびのように、私のなかに打ち込まれたことは間違いはなかった。
あれから四十年以上の時間が過ぎた。私は根無し草のようにあちらこちらをうろうろと動き回った。家族ができて、引っ越しをして、仕事をかわり、会社をつくり、会社を閉じ、流され、打たれ、波間に漂うような暮らしはいまだに落ち着かない。
いまなんの縁もゆかりもない隅田川の近くに住んでいて、昨夜は大きな花火が咲く地響きのような震動を感じながら時間を過ごしているときに、ふと日中の出来事を思い出した。
その日は私にも妻にも大きな予定が無かった。しかし、せっかくの休日に一日家にいるのも気が引ける。かといって、夜になって出かけると、いま鳴り響いている花火大会の人混みに巻き込まれてしまう。
妻は昼間のうちに、バスか電車で気軽に出かけられる場所へ散歩に行こうと言い出した。そこで、私たちは住まいからバス一本で到着できる巣鴨へ向かったのだった。
とげ抜き地蔵を訪れ、ここ数年、抜けそうで抜けないどうしようもない悩みが収まりますようにと二人で柏手を叩き、お辞儀をした。そして、脇にある水洗い観音に水をかけて石の身体を掌で洗う。そこでも、観音様の胸のあたりを擦りながら、胸に刺さったようなとげを一日も早く抜いてください、とお願いする。
お願いしながら、そんな自分勝手なことばかりをお願いしてもいいものだろうか、逆に罰が当たったらどうしようなどと考えてしまい、そう考えることこそがよくないのだと自分に言い聞かせつつ、地蔵通りを奥へ奥へと歩いて行く。
途中、「猿田彦大神・庚申堂」という看板を見つけた。ここまで来たのだからと猿田彦大神に会いに行くことにする。
妻と二人で五分ほど歩いて、商店街を抜けたあたりに、件の猿田彦の神様が祀られている庚申堂を見つけて、また手を合わせる。狛犬のように、祠の左右に置かれた猿の石像が穏やかに笑っていて気持ちがほぐれる。
ふらりと散歩に来たのに、なんとなくご縁があるのではないかと思い続けている猿田彦大神に出会えたことに、素直に喜びを感じたあと、さあ、帰ろうかとあたりを見渡すと、都電の小さな駅を見つけたのだった。都電に乗れば、バスと同じように自宅の近くまで一本で帰れるのだ。それなのに、これまで私は都電を使って巣鴨にくるというルートを考えたこともなく、乗り換え方を教えてくれるスマホのアプリから都電の利用を示唆されたこともなかった。
いま住んでいる場所に四年もいるのに、そして、巣鴨にはそれ以上に何年も通っているのに私は知らなかったのだ。こんなところにいつも使っている都電が通っていることも、駅があることも。
私と妻は、なにかとても大切な風景を見つけたような気持ちになって、痛いほどの炎天下にもかかわらず、穏やかな気持ちで都電を待った。駅の正面にあった甘味処を眺めながら、次来たときには、このお店でかき氷でも食べましょう、と笑う妻の隣で、私はなにか感じたのだった。なにを感じたのか、その時にははっきりしなかった。暑さでぼんやりしていたのか、思いがけなく見つけた風景を覚えておきたい気持ちが勝っていたのか、何かを感じたことすら、あっという間に霧散してしまった。
しかし、それがまたやってきたのだ。夕方の雷が収まり、花火大会が始まると同時に響いてきた震動が思い起こさせたのか、あの時、都電の駅の小さなホームで、私が感じたことが今度ははっきりと言葉として見えた。「その頃も旅をしていた」という言葉が私のそばにやってきていたのだった。都電の駅を見つけ、妻と二人でそこに佇んでいる私に、高校生の時に読んだ開高健の『夏の闇』の冒頭の一節、「その頃も旅をしていた」がふいにやってきたのだ。
いま、こうして都電の駅を見つけた瞬間の積み重ねこそが旅なんだ、と私が感じたということなんだろうか。それとも、ここへ至るすべてが旅なのだと、小説の一節を囁くことで誰かが私に教えてくれたのだろうか。
そんなことを考えている間に、花火大会は終わり、地鳴りのような響きはしなくなった。そして、私のなかに、途中の駅、という言葉がのこった。