イメージとしての戒名

植松眞人

 母の誕生日を待っていたかのように、父が亡くなった。入院してから一ヵ月も経たない六月の終わりの夜明け頃のことだ。
 父と私は、あまりうまく話せない親子だった。父は生まれて半世紀も経つ息子を、まるで小学生を相手にするかのようにしか接することができなかった。私は私で、利かん坊の子供のように、いつまで経っても父をなりたくない大人の代表に見立てることしか出来なかったように思う。
 緩和ケアを主体とする病院へ移ったのは入院してからわずか二週間目。その時の主治医との面談で、ご長男はどんな方なんですか、と母は聞かれたらしい。
「嫁さん子供と一緒には帰ってきても、一人では絶対に寄り付かん子ォやったんです。もう何十年もずっと。それがようやっと、この二年三年は一人でも帰ってくるようになって……。ようやっと、一人でも帰ってくるようになったのに……もうお父さんが生きられへんようになってしまうなんて……」
 と、私のことを初対面の主治医に涙ながらに話したらしい。そして、実際、その通りの息子だったと思う。
 しかも、この二年ほど実家に帰るようになったきっかけも、自分で興した広告制作事務所の経営が思わしくなく、借金を無心したことだった。
 もともと大学進学を控えた時期に、いまでは思い出せない何かで、父と言い争ったことが原因で、私は父と話をしなくなった。親離れしたい盛りだった私は、渡りに舟とばかりに、実家を離れ、出来る限り父と接触しないで生きてきたつもりだった。
 もちろん、自分も結婚し、子供たちが生まれてからは、年に一度は父母と孫を会わせるために帰省はしていたのだが、やがて小学生にあがった娘から「お父さんとおじいちゃんはなんで話をしないの?」と気づかれてしまうほど、私は殺伐とした雰囲気を漂わせながら実家で過ごしていたのである。
 なのに、父に無心をする。それは自分の弱さを吐露する相手が父しかいないという事実を思い知らされることであり、同時に最後のよりどころなのだと突きつけられることでもあった。もちろん、そうすることは辛かったが、それはおそらく父にとっても同じくらいに辛いことだったのだろうと思う。
 最終的に銀行とのやり取りをする母と私との間で、父はおろおろと落ち着きのない様子だった。しっかりやっていると思っていた息子が、右往左往している様を見て、動揺してしまったのだと思う。
 そんな父が亡くなって、通夜、葬儀、初七日、四十九日が過ぎ、百か日を迎えた。ずっと長男として喪主を務めてきたが、ここで一段落だという思いがあった。
 焼香の順番が違うだの、納骨が早すぎただの、四十九日は近所のショッピングセンターの駐車場が空いている時にしてくれだの、好き放題な親戚一同を目の当たりにして、父が亡くなったことを実感するよりも、こんな親戚一同のなかで育ってきたのだと改めて噛み締める数ヵ月だったような気がする。しかし、もうすぐそんな気忙しさからも解放される。私はそんなことばかりを考えていた。
 父が亡くなってからの様々な手続きや段取りを私は嫁さんと母に任せっきりにしていた。自分では何一つやっていないのに、こんなに疲れるのはなぜだろう。私はそんなふうに思いながら、百か日の朝を迎えた。そして、一足先に目を覚ましていた嫁さんに声をかけた。
「おつかれさま」
 嫁さんはきょとんとした顔を私を見る。
「なに、それ?」
 そう言って笑うと、
「さあ、朝ご飯朝ご飯。もうお腹空いてたまらんわあ」
 と階段を下りていく。
 子供たちを東京に置いてきたことで、少し気持ちが軽いのかもしれない。
 大学受験を迎えた娘と、高校受験を控えた息子は、私たちがいないほうが気楽に時間を過ごせるだけには成長していて、「家のことはちゃんとしてるから任せといて」とその場限りの気の効いたセリフを吐いて、嫁さんをその場限り安心させるのだ。
 階段を下りていくと、すでに母がトーストを焼いている。いい香りがして、腹が鳴る。
「コーヒー、淹れよか」
 母がそう聞いて、私が答えるよりも早く、嫁さんが
「お母ちゃん、ええから、ええから。私が淹れるから」
 と、答えて動き始める。
 私は二十歳前に家を出てから、自分の父母をお父ちゃんお母ちゃんとは呼べなくなった。面と向かっては「なあ」と呼びかけるばかりだ。そこへいくと、嫁さんは何の屈託もなく「お父ちゃん、お母ちゃん」と私の父母に呼びかける。
 父が亡くなって、名義変更などの手続きをするために、銀行員が来た時にも、母と嫁さんを本当の母娘と間違えていたらしい。
「今日の百か日の法要は、ちゃんとお父さんのほうが来てくれるんやろか」
 コーヒーを飲みながら母が言う。
 実家では私が子供の頃からずっと月命日には近くのお寺さんから住職がお経をあげに来てくれていたのだった。私が高校生の頃だったか、先代の住職が亡くなり、息子さんが後を継いで、月命日の法要も引き継がれた。今では、そのまた息子さんも住職になっている。
 父が亡くなったとき、檀家である寺に電話をかけると、お父さんのほうの住職が出た。丁寧にお悔やみを言ってくれて、実際、お通夜の席では涙ぐみながらお経を上げてくれたのだった。
 しかし、翌日の葬儀は、どうしても都合があわずに、息子のほうの住職が努めてくれた。私としてはお父さんでも息子さんでもどちらでも良かったのだが、これがどうにもうまくない。読経が極端に短く、何よりも私の父との思い出が何もないので、読経の後、天気の話しかできないのだった。葬儀、初七日、四十九日と、毎回「暑い気候が続きますが、みなさんお体大丈夫でしょうか」という話を聞いていた親戚からは「前に聞いた」と露骨に返すものがいたくらいだ。
 さらに、納骨式で、自ら墓石を抱え、墓石の一部を欠けさせるという失態があってからは、さすがに親戚一同の不満がたまってしまい、ついに母がお寺に直接出向いて、「百か日法要は、お父さんのほうでお願いできますでしょうか」と頼み込んだのだという。
「私もさすがにあんまりやと思うから、後で電話したんよ。息子さんが悪い訳ではないけど、亡くなったお父さんを知ってるのは、お父さんのほうのご住職だけですって。そない言うて、百か日はお父さんのほうでお願いしますって、言うといた」
 嫁さんはそういうと、淹れたてのコーヒーを飲み、トーストを頬張った。
「そうやなあ。あの息子ではありがたみもないしなあ」
 私がそう言うと、嫁さんは笑いながらため息をつく。
「そうやろ。お父ちゃんの戒名の説明もしてくれへんしな」
 母もそれを聞きつけて口を挟む。
「そうやねん。もうな、うちのお父ちゃんもな、お父さんに法要してもらわな浮かばれへんわ」
 母はそれだけ言うとなぜか笑う。
「ほんまやなあ、お母ちゃん」
 と、今度は嫁さんが笑う。
 ちょうどその時、インターホンが鳴り、仕出し屋から弁当が届いた。
 仕出しについても一悶着あった。葬式の仕出しのほうが、四十九日の仕出しよりも美味しかったとか、来れなかった親戚の分を持って帰ってやりたいので折り詰めにしてくれとか……。
「お母ちゃん、今度はもうお弁当にしたから、持って帰りたい言われても、はいどうぞ! 言えるわ」
 嫁は嬉しそうに母にそう言う。まさに準備万端である。後は、十一時までに親戚が揃い、十一時にお父さんのほうの住職がやってきてくれればそれでいい。おそらく端折った短いお経なのだろうが、それでもかまわない。お経を読んだ後は、戒名の意味をつらつらと話してもらえれば、それでおしまいだ。そんなことを考えていると、すでに法要が始まる前から安堵のため息が出そうになる。

 最初にやってきたのは亡くなった父の妹夫婦だった。
「少し早く着いちゃったわよ」
 と十時半頃に到着した。
 その後も順調にみんながやってきて、十時四十五分には全員が仏壇の前で座っていた。亡き父の思い出話も、四十九日あたりで尽きてしまい、特にみんなで話すこともない。みんなが手持ち無沙汰で住職を待っている。
 しかし、そんな時に限って、こないのだ。十一時になっても住職は来なかった。それでも、集まった親戚一同はまだ黙っている。ただ、五分も我慢できない。十一時五分になると、さっそく文句が出た。
「うちが頼んでるお寺さんやったら、絶対遅れへんけどなあ」
 と母の弟が話しだす。
「ほんまやなあ。だいたい三十分くらい前には着いて、待ってはるもんなあ」
 と、母の弟の嫁が答える。
「そやねん。待っとるねん。そやから遅れへんねんなあ」
 同じことをちょっとだけ言い方を変えて、互いに話し続けている。
 たった五分遅れただけで、そんな話が出てくるくらいだ。以後、誰かがずっと住職の時間の遅れを指摘し続け、十分が過ぎ、二十分が過ぎるころには、弾劾に近い言葉まで飛び出してしまう。
「えらい待たせるなあ。坊さんは気楽な商売やのお。待たせても当たり前やとおもとるんとちゃうけ」
 と言葉が荒っぽくなった瞬間に、タイミングよくインターホンが鳴った。お父さんのほうの住職だった。ちょうど三十分遅れで到着した住職は、「三十分の遅刻やなあ」とか「割引やで割引」という小さな声を聞かぬふりで仏壇の前に座った。
「ほんまに遅くなって申し訳ありません」
「いいえ。ちょっと心配しましたけど」
 と、私の嫁がちくりと刺す。
「今日はお参りしていただくのと、あとご位牌を新しいものに変えていただきたいんです」
「はい。わかりました」
 住職はこれ以上曲げられないほど腰を折って、うなずいている。
「それから……」
 今度は私が声をかける。
「実はまだ、戒名の意味を聞かせてもろてないんです。できたら、その戒名の意味も教えていただけますでしょうか」
 そういうと、住職は強くうなずき、やっと住職らしい顔つきになって、私の嫁から新しい位牌を受け取って仏壇のほうを向いた。
 さすがにお父さんのほうのお経は、息子のそれよりも落ち着いていて渋さがあった。それでも、お経の長さは息子とそう変わりなく、十五分もすると終わりの気配を見せた。母の弟夫婦はきっと後で何か言うだろうが、私はかまわなかった。足もしびれている。一分でも短くしてくれていい。早く終わって、早く弁当を食べてお開きにして、シャツを脱いで寝転んでしまいたかった。後は一年後の一周忌だ。それまでは親戚一同になにを言われてもかまわない。そんな気分だった。
 読経が終わり、回されていた焼香盆が住職に戻された。住職はもう一度深々と仏壇に礼をすると、私たちのほうへと向き直った。
「本日は、バタバタと遅れてしまい申し訳ありませんでした」
 住職はもう一度遅れた詫びをいうと、深く頭を下げた。
「外次(そとじ)さんには古くからよくしていただきました」
 住職はそういうと、言葉に詰まった。見ると、住職は涙ぐんでいた。私はふいをつかれた思いだった。仕事として読経してもらい、仕事として戒名の意味を教えてくれればそれでいいと思った自分が少し恥ずかしくなった。目の前で住職が私の父を思い泣いている。私は正直期待していなかったのだ。いくら古くからの付き合いだと言っても、彼岸の季節に、心のこもった法要などしてもらえるはずがないと思っていた。だから、お経が短くても平気だったのだ。ところが、住職が泣いている。泣いて話が出来なくなっている。住職は懐からハンカチを出すと、涙を拭い言葉を続けた。
「それから、戒名の意味をということでしたので……」
 そういって住職は戒名が書かれた真新しい位牌を取り上げると両手で包むようにして、戒名をこちら側に見せてくれる。そこには『正隆逡外信士』と書かれている。
 父の名前は外次と書いて「そとじ」と読む。少し変わった名前だが、戒名の四つ目の文字「外」は、外次からとったものだろうと予測していた。あとは「正」とか「信」とかそれらしい漢字を使えば出来上がり。戒名というのは、なんといい加減なものだろうと私は思っていた。
 そんな私の考えを見透かすかのように、住職は話しだした。
「外次さんから『外』という字をひとついただきました。そして、全体の意味ですが、これはもう本当に私のイメージなんです」
 イメージ? 私は虚をつかれた。住職のイメージで戒名をつけるのかと、素直に驚いた。
「外次さんは大きなスクーターに奥様をお乗せになって、あちらこちらをいっつも走っておられました」
 そうだった。父は八十を過ぎても、亡くなる二ヵ月ほど前迄は大型のスクーターに乗っていたのだ。母を後ろに乗せて、職場に連れて行ったり、買い物に行ったりしていたのだった。
「そのような俊敏な様をイメージしまして、『俊』という字を使わせてもろたんです」
 俊敏の俊だったのかと私はうなずく。
「それから、私が若い頃から、外次さんとは時々お話させてもろてまして、曲がったことの嫌いなまっすぐなお方ということが伝わってきまして、俊敏に動き回られることで、正しいほうへと色んなものを導かれて、そして、正しいほうへとお行きになった……。いやほんまに、これは私の勝手なイメージなんですけども、そういうイメージが浮かびまして、『せいりゅうしゅんがいしんじ』と『正隆逡外信士』という戒名をつけさせてもろたんです」
 私と嫁は思わず、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いやもう、ほんまにイメージなんですが」
 と、住職は少し困った顔で私に言う。
「充分です」
 本当に充分だと思えた。人の言うことをなかなか聞かず、かんしゃく持ちで、母を困らせ続けた父だが、そんな父が母をスクーターに乗せて走り回っていた姿を思い描いてありがたい戒名をつけてくれた人が目の前にいる。それだけで、私は素直に住職に手を合わせた。
 父が亡くなってから、百か日を迎えるまで、バタバタとするばかりで、心から父を思うことはあまりなかったような気がするのだが、たった今、住職から戒名の意味を聞いた瞬間にふっと父があの世に旅立ったのだという気がしたのだった。いろいろあったけれど、これで良かったのかもしれない。そう思えた瞬間だった。
 知らぬ間にまた涙があふれた。
 住職が帰った後も、口うるさい親族は住職のお経が短かっただの、位牌が小さいだの、一周忌はどうするだの口さがない。
 私は仏壇の中にそっと置かれた位牌を見て、『正隆逡外信士』という文字を一文字ずつ小さく声に出して読んでみた。すると、嫁さんが「ええ戒名やね」と笑った。「ええ戒名やな」と私が答えた。(了)