犬の名を呼ぶ(8)

植松眞人

 目の前を聡子が歩いている。
 その少し先をブリオッシュが歩いている。高原は凧揚げでもしているかのような気持ちで、後からついていく。まるで、ブリオッシュと聡子と自分が一本のたこ糸でつながれているような気分だ。それは、実際に聡子が力一杯に握っているブリオッシュのリードよりも細くて、しかし、強い。
 そう言えば近頃は元旦に凧揚げをしているような風景に出くわすこともなくなった。そう思いながら高原は空を見上げてみる。真っ青に晴れ渡った空は、正月らしく澄み切っていて、雲ひとつない。
 しばらくぼんやりと凧を探してしまっていたのだろう。距離を開けた聡子が振り返る。
「おじいちゃん、なにしてんの」
 その怒った顔に見覚えがある。
「聡子の幼稚園じゃ、凧揚げなんかしないのか」
 高原がそう聞くと、聡子は即答する。
「やるよ。昔遊びの時間に」
「昔遊びってなんだよ」
「ベーゴマとか、凧揚げとか、あやとりとか。そういうのを教えてくれるの」
 そういう遊びを昔遊びというのか。なんとなく引っかかる言い方だな、と思うのだが孫の前ではそんなことは言わない。
「おじいちゃんが子どもの頃は、正月には男の子はみんな凧揚げをしたんだけどな」
 それだけを言うと、聡子の返事を待つ。
「今はね。電線とか高いビルとかが多いでしょ。だから、みんなが勝手に凧揚げすると危ないんだよ。だから、昔遊びの日に、近くの小学校の校庭でやるんだよ。それに、お正月は学校も大人もお休みでしょ。だからできないんだよ」
 そう言うと、聡子は母親の菜穂子そっくりの勝ち誇ったような顔をする。自分の孫だが、この表情をしたときの聡子はどうも可愛いとは思えない。
「そうだな。お正月はお休みだからな」
 高原は聡子にそう返して、また歩き始める。そして、何が昔遊びだ、と思うのだが、自分が子どもの頃だって、凧揚げなど古い遊びの部類に入っていて、ちょっと金を持っている家の子どもは「今どき、日本の凧はダサイ。これからはこれだよ」とイトマキエイのような形をした西洋凧に興じていた。
「あ、凧だ!」
 聡子が空を指さしている。確かに西の空に小さな西洋凧のシルエットがある。
「きっと、小学校であげているんだよ。あの凧の模様、見たことあるもん」
 逆光気味で見えづらいが目をこらしていると、その凧が赤と黒のラインをまとったいかにもスタイリッシュなデザインを強調していることが分かる。
「おじいちゃん、今日はお正月でお休みだけど、昔遊びのおじさんが頑張っているのかもしれないね」
 聡子は自分の前言を自分でひっくり返すことに抵抗があるのか、恥ずかしそうに言いながら、すでに小学校の方向に向けて歩き始めている。さっきまで、ぼんやりとした犬の散歩だった道行きが、聡子の中で明確な目的を持った。
 聡子の目はしっかりと凧を見すえ、確かな足取りで小学校を目指している。ブリオッシュも聡子の意志を感じたのか、さっきよりもいくぶん力強く歩き始めたようだ。高原はただ聡子とブリオッシュを眺めながら後をついていく。
 小学校が近づくにつれて、凧が視界から消えることが多くなった。建物に遮られて、凧が見えなくなっても、聡子は凧があるはずの方向を見すえて歩いた。そこに行けば、必ず凧を揚げている人がいて、そこに行けば凧とその人をつなぐ糸がある。聡子にもブリオッシュにも何の疑いもないようだった。
 しかし、高原はブリオッシュと聡子の後を歩きながら、そう確信できるのはお前たちが若いからかもしれないぞ、と思い始める。最初から凧は別の場所で揚げられているのかもしれないし、もしそこから揚げられていたとしても、その人物はもう凧糸を鉄棒にでもくくりつけて帰ってしまったかもしれない。
 どちらにしても、誰もいないだだっ広く寒々しい校庭ばかりが思い描かれる。空に上がっている凧と、地上の出来事はまったく無関係なのではないか、という気持ちが高まってくる。高原はそのことを聡子に言ってみたい衝動に駆られる。もし、誰もいなかったらどうする、と聞いてみたいのだが、「それでもいいじゃない」と答えられたら、ちょっと立ち直れないな、と思い直して、大人しく聡子の背中を眺めながらスクールゾーンと大きく書かれたアスファルトを歩くのだった。