犬の名を呼ぶ(4)

植松眞人

近頃、ブリオッシュは真っすぐに走るようになった。高原はふいにそう思う。リードを引いて一緒に散歩しながらブリオッシュの背中を見ていて、唐突にそう思ったのだった。

しかし、だからと言って、それまでのブリオッシュが真っすぐに走らなかったのかと言われると判然とはしない。思い返してみても、右へ左へヨタヨタ走っていたわけではない。ただ、真っすぐに走っていたというイメージが持てないのだった。歩きながら速度をあげることはあっても、迷いなく目的地に向かって走っている、というイメージではなかった。もちろん、いまも明確な目的地があって走っているわけではないのだが、確かに一足一足を落とす場所に迷いがない、という気がする。

歩くこと、走ることに迷いがなくなった、ということなのだろうか。いや、もしかすると、ブリオッシュは走るということを意識したことがなかったのかもしれないと思う。歩く速度があがっただけで走れるわけではない。高原はそう思った。歩くことと、走ることの間には確かな線引きがあるはずだ。ブリオッシュはここしばらくの間に走ることを覚えたのではないか。だとしたら、それはいつだったのか。高原は考え始める。そして、考え始めてすぐに「あの時だ」と思い至る。

二週間ほど前、ブリオッシュと散歩に出かけようとした時に、リードを付ける前に脱走してしまったことがあった。

きっとのあの時だと高原は確信した。ブリオッシュはあの瞬間に走ることを覚えたはずだ。走ることと歩くことの違いを知り、意識して走れるようになったのだと高原はなんとはなく確信したのだった。

いつもの公園のいつものベンチに座ったまま、足元に寝そべっているブリオッシュの背中を高原はなでる。ブリオッシュは少しうるさそうに高原に視線を送る。そして、すぐに元の姿勢に戻ると、再びあごを地面につけて寝そべってしまった。

あの日からブリオッシュの動きにはメリハリのようなものが出てきたような気がする。少なくとも我が家にきたばかりの時のように、部屋の中を走り回るということはしなくなった。前は家の中も家の外も同じように走り回っては、いろんな物を壊したりしていた。それが最近、ぱたりとやんだのだった。

以前は、ブリオッシュを唐突にうちに放り込んでいった娘によく文句を言っていたものだ。
「じっとしているかと思うと、突然火がついたみたいに走り回ったりするんだよ。おかげで家の中が落ち着かないよ」

それがどうだろう。こちらが「散歩に出かけるか?」という目配せをするまでは、ぼんやり寝そべっていたりする時間が増えた。

高原がそう言うと、娘は笑った。
「大人になったんじゃないの? 犬は生まれて一年で成人するっていうからさ。ブリオッシュだってもう子供じゃないんだよ」

そんな母親の話を聞いて、今度は孫娘の聡子が言う。
「ねえ、お母さん。ブリオッシュって何年くらい生きるの」
「そうね。大型犬だからねえ。犬は大型犬の方が寿命が短いのよ」

そういうと、聡子は「え?っ」と露骨に嫌そうな声を出す。
「かわいそうだよ!」
「仕方ないじゃない。でも、十年から十五年は生きるんじゃないのかなあ」

そう言われた聡子は、ブリオッシュの顔をじっと覗き込む。

十年が経つと俺はもう七十五歳だ。そう思った途端に、高原は目の前の風景に蜃気楼がかかったような揺らぎを感じた。うっすらとした透明の膜のようなものがかかって見えた。高原は深いため息をついた。そのため息を聞きつけたのか、聡子が高原を心配そうに覗き込みながら「大丈夫だよ」とにっこり笑う。
「心配しなくても大丈夫だよ。おじいちゃん」

ちょっと複雑な表情で、高原は聡子に微笑み返す。聡子はもっと高原を慰めようと、言葉をつなぐ。
「おじいちゃんとブリオッシュで、どっちが長生きするか競争だね」

そう言われて、高原は一緒に笑う。笑うのだが、自分の笑いだけが少し引きつっているのではないかと、そればかりが気になって仕方がない。

あれから数日たっても、「どっちが長生きするか競争だね」という言葉が棘のようにつかえたままになっている。そして、その棘は日を追うにつれて小さくはならず、大きくもならずに、ずっと同じ大きさで同じ場所に刺さっていた。だが、その場所がよくわからない。

あと十年たてば俺は七十五だ。そして、十五年たてば八十歳。八十になって俺が死んでも、誰も「お若いのに」とは言わないだろう。高原は改めて自分の歳を明確に意識することで、目の前のブリオッシュの背中から視線を離せなくなるのだった。

ブリオッシュのゆっくりと息づく背中を、その動きに合わせて、同じようにゆっくりとなでる。
「どっちが長く生きるんだ」

高原はブリオッシュに聞いてみる。そして、自分が確実に年老いていく十年の間に、ブリオッシュはどんな一生を駆け抜けるのだろう。そう思うと、高原は自分が過ごしてきた時間がいかに長い時間であったのかを考えて呆然としてしまう。そして、その長い時間を振り返ろうとしてやめる。どうせ、そんなことをしても悔やまれることばかりが思い出されそうだ。

「でもな、お前よりも覚えることも、やらなきゃいけないことも多かったんだよ」
 高原はブリオッシュに言い訳するように言う。
「まあしかし、俺の散歩とお前の散歩では、その重みが違うのかもしれないな」

そして、高原は笑いながら立ち上がる。いつもよりも少し長くベンチに座っていたからか、それとも真っすぐに走ることを覚えたからか、ブリオッシュも待ち兼ねていたように立ち上がる。

尻尾を振り、今にも駆け出そうとするブリオッシュをリードの微妙な引き具合で制しながら、伝わってくる鼓動に高原は呼応する。そして、ため息ではない短く勢いのある息をブリオッシュにも聞こえるように音を立てて吐く。「十年は長いよな」
高原はブリオッシュに話しかけてみる。

すると、ブリオッシュは「うん」と言ったのか「いいや」と言いたかったのか、少し振り返ると妙な音を立ててくしゃみをした。