マフィンが売れないのは僕のせいかな。

植松眞人

 小さなカフェをひらいた。
 といっても、自己資金はゼロ。父に融通してもらった金で開いたカフェだ。内装のために少し公的な融資をしてもらったが、その保証人も父なので、個人的にはなんの苦労もしなかった。
 都内だけれど、住宅の多い私鉄沿線のこの町は、昔から生まれ育った馴染みのある場所だ。ここなら商売になる、という勝算があって場所を決めたわけではない。ここなら知り合いが多い、ここなら自分が楽しく過ごせそうだ、ということでここに決めた。
 正直、僕には商才はないと思う。商才があるなら、今まで働いていた小さなOA機器のメーカーでもきっと芽が出ていただろうし、辞めようかと思っているんです、と飲み会の席で上司に愚痴っただけで、これだけスムーズに円満退社の話が運ぶわけがない。上司にしてみれば、文句ばかり多くて、働きの悪い僕を辞めさせるいい機会だったに違いない。渡りに船というわけだ。
 会社を辞めたいきさつを話すと、母は大きなため息をついた。
「人がいいっていのか、馬鹿だって言うのか」
 きっと馬鹿なんだと自分でも思う。母に言われるまでもない。悪い奴ではないが賢くはない。さすがに三十数年生きてくれば、自分でもわかる。その上、カフェを開きたいだなんて言い出すお調子者。馬鹿だと言ってくれるだけ親のありがたみがわかるというものだ。
「とにかく、父さんと話してみればいいよ。何をするにしてもお金ないんでしょ。父さんに相談しないとなんにも始まらないんだから」
「そうだね」
 僕が答えると、母は呆れたように笑う。
「不思議な子だよ。普通、男ってのは父親にもっと反発するもんだよ。依怙地になって援助を断るか、逆に開き直って物乞いみたいになるか、どっちかだと思うけどね」
「そうかな」
「そうだよ」
 母は僕を眺めて何度目かのため息をつく。
「なんか息子と話してるっていうよりも、本当に出来の悪い社員と話してるようだよ」
 母はそう言った。
 父の経営している小さな商社は、実質母が経営しているようなものだから、母からそういう言われ方をすると、やっぱり少しこたえる。
「ごめん」
 なんの気負いもなく、自然に僕は謝ってしまう。
「なんかやだ」
 母がそう言う。
「え、なにが?」
「なにがって、そういうところがいやなんだよ、あんたって子は。甘えるでもなく、小馬鹿にするでもなく、飄々としていられる感じが憎らしいんだよ。こっちは親だからさ、結局最後は甘やかしちゃうんだけどさ。なんだか、それをよしとしない感じが伝わってくるのよね」
「いやもう、自分じゃわかんないよ。ごめん」
「父さんに似たのかねえ。とにかく、父さんと話してみればいいよ」
 母はそう言った。
 確かに、僕にはそう言うところがあった。親に甘えてはいけない、という気負いのようなものが全くなかった。かといって、親のすねをかじってずっと生きていこうと開き直っているわけでもない。それなりに真剣に考えて、親孝行だってしなきゃなあ、とは考えているのだ。ただ、どちらにしても、ストイックになるということが出来ないのだった。
 日本の古い車を東南アジアへ輸出する、という商売で会社を立ち上げた父だが、父親にも似たような傾向があるようで、そこがどうやら母の気に障るようだ。
 父の会社はそれなりに利益を上げているのだが、父の考えた最初の商売ではとっくに儲からなくなっていて、いまは母がまるで家計簿のように細かくお金の管理をし、主婦のように素人考えを真剣にビジネスにする、ということで利益を確保していた。そして、そんな利益をすぐに浮ついた思いつきに使おうとする父と僕が似ていると母は思っているのだ。自分ではよくわからないが、母がそう言うのだから、父と僕は似ているのだろうと僕は納得していた。

 そんな父と話したのはその日の夜だった。母から概略を聞いていたのか、父はストレートに切り出した。
「カフェって、なんなんだ」
 父は真顔でそう聞いてきた。
「そうだなあ、今風の喫茶店っていうのか」
「スターバックスみたいなやつか?」
「ああいうコーヒーショップじゃなくて」
「ドトールみたいなのか」
「いや、あそこまでおじさんが集まる喫茶店でもなく」
「じゃ、おっさん相手じゃなく、女性客を相手にするわけか」
「ま、どっちかというと、そうかな」
 そこまで話すと父は、わかった、と資金を融通してくれることを約束してくれた。たぶん、夕べ見た『ワールドサテライトニュース』かなにかで、女性客をターゲットにした飲食店が繁盛しているというようなニュースを見たに違いない。
 自分の会社は実質、母が経営しているのだが、父はそれも含めて自分の経営力だと思っている節がある。そうでなければ、奇跡的に世界経済の隙間をついて創業以来ずっと右肩上がりが続くわけがない。父は真剣にそう思っているのだ。しかし、だからこそ、僕もあまり罪悪感を持つことなく、父に無心ができるのだ。
 僕がカフェを開くという話も、きっと母から聞かされ、おそらく利益が出るだろう、という話をされていたのだと思う。父からは否定的なニュアンスの言葉はでなかった。母は決して息子だからと、中途半端に目をかけたりはしない。きっとこの場所でカフェをやるなら、誰にやらしても、大損はしないだろう、と踏んだに違いないのだ。

 ということで無事に父からの援助と公的な融資で、僕は小さなカフェをひらいた。お客さんが十人も入れば満席になるような本当に小さな店だ。もともと和菓子屋さんだった場所を借りた。冷蔵ショーケースは必要ないので、これを取っ払って、その分、テーブルと椅子を増やした。狭苦しい感じになるのが嫌だったので、狭いながらもゆったりと席をつくったら十人でいっぱいの店になってしまった。二十人は入れられると思っていたので、少し誤算だったけれど仕方がない。
 一緒に店をやってくれるのは、来年には結婚しようと話しているノンちゃんで、お金はいらないと言ってくれている。もちろん、利益が出たら払ってあげるつもりなのだが、利益がでるまでは、ちょっと我慢してもらえばいいと、僕も少し甘えたことを考えているのだった。
 ノンちゃんは二十六歳で、僕は三十六歳。歳は十も離れているけれど、見た目はそれほど離れているとは言われない。ノンちゃんは年相応で、どちらかというと僕がお気楽な生活を送ってきたせいか、妙に若く見られてしまう。ノンちゃんと僕は、共通の友だちのお芝居を見に行って知り合った。芝居が終わった後の打ち上げに一緒に参加したとき、ノンちゃんは僕に、何歳?とため口で聞いてきた。僕が正直に歳を言うと、最初きょとんとした顔をして、その後、耳まで真っ赤にして謝った。ほとんど同い年ぐらいだと思っていたらしい。それが僕とノンちゃんの出会いだった。

 店を開いて半年たった。ようやく収支がとんとんのところまできた。ほっと一息ついたという気がした。ただ、父の会社で経理をやっているオオタニさんからは、収支がとんとんになってからが難しいんですよ、経営って、と言われていたので気合いを入れ直さなければ、とメニューなどは常にいろいろ考えては工夫をしていた。
 オープンした頃は、おいしいコーヒーとハーブティーだけで勝負しようと思っていたので、それ以外のメニューは置いていなかった。それでも、知り合いがたくさん来てくれて忙しかった。ただ、時々「お腹が減った」とか「甘い物がほしい」という人がいたので、近くのスーパーで買ってきたクッキーなんかを一緒に出すようになった。
「このクッキー、お店で焼いたんですか」
 なんて聞いてくるお客さんがいたりする。もちろん、僕は正直だから嘘は言わない。
「そこのスーパーで買った物なんです」
 というと、そのお客さんは露骨に残念そうな顔をした。添加物とか怖くないですか、と女性のお客さんは言うけれど、僕はあんまり気にしたことがなかったので、いつも曖昧に笑ってごまかした。
 実はこのことに一緒に店をやっていたノンちゃんはとても傷ついたらしい。お客さんに残念そうな顔をされたことよりも、僕がなにも気にせず、スーパーのクッキーを出していることにがっかりしていたのだと、だいぶ時間が経ってから聞かされた。
「やっぱり、こういうカフェは、手作りのものを置いた方がいいと思うの」
 そう言いだして、その日から店の奥でノンちゃんがクッキーを焼くようになった。そして、それをコーヒーやハーブティーにサービスで付けるようにすると、お客さんが本当に嬉しそうに喜んでくれた。
「これって、お店の手作りですよね」
 お客さんはそう言うけど、このいびつな形を見て手作りだと思わない方がおかしいと僕は思った。それくらいノンちゃんの焼くクッキーはヘンな形をしていた。ただ、お客さんにとってはそれこそが、手作りの証のように見えるのか、嬉しそうに、有り難そうにクッキーを食べるのだ。
 僕がその話をノンちゃんにすると、ノンちゃんはちょっと得意そうに答えた。
「もちろん、わざとちょっと形をヘンにするのよ。型とかを使ってまん丸にすることはできるけど、それじゃ面白くないもの」
 それを聞いて、僕はノンちゃんはただものではない、ノンちゃんを奥さんにすれば間違いないと感心してしまうのだった。

 これだけ手作りクッキーが喜ばれるなら、別の甘いものも作ろう、と言うことになった。しかも、クッキーのようにサービスでつけるのではなく、ちゃんとお金をいただいて提供するメニューだ。そんな話をしているときに、ノンちゃんが思いついたのがマフィンだった。
「マフィンは子どもの頃、実家の母さんから教えてもらったの。ホットケーキミックスを使った簡単な作り方だったけど。いまはホットケーキミックス使わなくても、材料を合わせるところから、目をつぶっていても作れるの。時間もかからないし、食べるほうも小さいからおやつにちょうどいいと思う。アイスを付けたり、ジャムをつけたり、付け合わせもしやすいし」
 ノンちゃんのその一言で、マフィンを出すことに決めた。最初に作ったのは紅茶のマフィン。甘さを控えめにしたマフィンは、知り合いに試食してもらうと絶賛の嵐だった。
「これなら売れる」
「お金を出してでも食べたい」
 身内とは言え、そう言ってくれることに勇気を持った。ノンちゃんはニコニコしながら、マフィンを焼いた。
 僕は黒板にチョークで書いた。

 紅茶のマフィン 四百円
 紅茶のマフィン 梨のシャーベット添え
 五百五十円

 マフィンを出し始めた初日は五つ売れた。
全部で九つ作っていたので半分以上は売れた計算だ。そして、日が経つにつれてマフィンは少しずつ売れる数を伸ばした。
 売り出して二カ月で作っていた九つがほぼはけるようになり、三カ月目に入ると足りない日が出てきた。そこで、ノンちゃんはマフィンを二十個つくった。
 さすがに毎日二十個がコンスタントに出ることはなかったが、それでも時々十五個売れたりした。

 ノンちゃんに負けてはいけないと、僕は僕でランチメニューを考えた。ピラフとカレーだ。どちらも流行のカフェによくあるようなワンプレートにして、女性が喜びそうなサラダとスープをセットにした。
 時々、マフィンがびっくりするほど売れたり、ランチ時に人が表に少しだけ(ほんのに三人だけだけど)並んだりすることがあって、僕たちはとても驚いた。自分たちが出している食べ物が、そんなに人の期待に応えているとは到底思えなかったからだ。
 自分たちでも作った物は食べていたから、味はわかっている。それが並んでまで食べる価値があるかどうかは僕たちがいちばん知っている。正直、そこまでうまいとは思えなかった。だから、僕たちは店が流行ったら流行ったで、なんとなく居心地の悪さを感じて、お客さんが帰り際に小さなキャンデーをあげたりして、ホスピタリティでバランスを取ろうとした。
 そんな僕とノンちゃんの様子も、カフェ好きの女子にはたまらなかったらしい。ネットのカフェクチコミサイトで、「若いカップルが一生懸命にやっているカフェ」とか「素朴な味と、素朴な人間味がいい」とか、およそ味とは関係がない部分が評価されているのがわかった。もちろん、それもお客さんを呼ぶ価値には違いないと、僕たちは頑張った。だからこそ、収支がとんとんのところまでやってこれたんだと思う。

 ある日、ノンちゃんは僕に言った。
「ねえ、もっとおいしい物を作りたいの」
「いいね。僕もそう思うよ」
 と、笑顔で答えると、ノンちゃんは少しだけ切羽詰まった顔になった。
「私、シフォンケーキを作るわ」
「シフォンケーキって、柔らかいスポンジの少し大きめのケーキだよね」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは切羽詰まった表情を少しだけ和らげて笑う。
「だって、私、自分がつくったマフィンを決して悪いとは思わないけど、最高だとも思わないの。なんかね、母さんから教えてもらったものだから商品って感じがしないんだと思う。最高とは思わないけど、特別なのよ」
「わかるよ」
「だったら商品として、マフィンよりももっとおいしいものを作って、来てくれるお客さんを喜ばしたいなって」
 そう言って、ノンちゃんはその日からシフォンケーキ作りに取り組んだ。僕たちは休日になれば、シフォンケーキで有名なカフェや喫茶店、洋菓子店に出向いて、いろんなシフォンケーキを食べてみた。朝昼晩とシフォンケーキでお腹がいっぱいということもあった。気付いたのは、おいしいシフォンケーキはお腹がいっぱいでもちゃんとおいしく食べられるっていうことだった。逆においしくないシフォンケーキはお腹が空いている時でも、少し胸焼けがしたりする。

 僕たちがたどり着いたシフォンケーキは、僕たちの店から私鉄の駅で二つしか離れていない場所にあった。カフェや喫茶店ではなく、駅前の小さな洋菓子屋さんのショーケースの中にシフォンケーキを見つけたとき、ノンちゃんは僕を見て笑った。その笑顔を見て、僕はここのシフォンケーキはいけるかもしれない、と何となく確信した。僕は別に洋菓子について詳しいわけでもないし、カフェについて充分に研究したわけでもない。僕が確信したり納得したりするときは、いつも何となくだ。
 ノンちゃんはその小さな洋菓子屋さんのショーケースにあったごく普通のシフォンケーキを指さして、あった、と小さく叫んだ。店のおじさんは驚いた様子をしていたが、決して迷惑そうな顔はしなかった。むしろ、妙な子が飛び込んできたな、とおもしろがっているように見えた。
「すみません。シフォンケーキをください」
「一つでいいですか?」
「はい、一つでいいです。あ、それから、ここで食べていいですか?」
 ノンちゃんが言うと、おじさんは店の隅っこに置いてある小さな椅子を指さした。
「じゃ、お皿に入れてあげるから、そこの椅子に座って食べればいいですよ」
「普段から、この椅子で食べる人がいるんですか」
 ノンちゃんが聞くとおじさんは声を出して笑った。
「そんな人いないよ。だけどね、この店の常連さんはお年寄りが多いんですよ。だから、店までたどり着いたときにはもう息切れしてたりして。だから、椅子に座ってもらって、ちょっと休憩してもらうの。そのための椅子なんです」
 おじさんにそう言われて、ノンちゃんはにっこりと笑った。
 ノンちゃんが座り、僕がその隣に座った。
 しばらくすると、奥さんらしき人がお盆をもって出てきた。お盆の上にはシフォンケーキとフォークが二本。それから汗をかいたコップに入ったお茶が二杯。
「すみません。気を遣わせてしまって」
 僕がそう言ってお盆を受け取ると、奥さんはにっこり笑ったまま引き返した。
 ノンちゃんはもうフォークを手に取り、シフォンケーキを一口サイズに切り取ると、口に運んだ。そして、しばらく口をもぐもぐさせた後、僕を見てとても素敵な表情を見せた。いま食べたばかりのシフォンケーキを身体全体で肯定したというか受け入れた表情だった。
「おいしい」
 そう言うと、ノンちゃんはもう一口食べた。食べながら、僕にも食べてみてとうながす。僕もシフォンケーキを口にしてみる。本当においしかった。しっとりとしていて、それでいてべたつかない。当たり前と言えば当たり前で、特別な味ではないのだが、これまで食べてきたシフォンケーキが一工夫しようとして、なんだかとても主張しすぎていた気がしたので、なんだかとても素直なシフォンケーキに出会えた気がしたのだ。
 思えば、ノンちゃんはいままでも、素直な味のするものばかりを好んできた。お店で出しているマフィンもとても素直な味だし、選んだ紅茶の味もそうだった。
「あなたたちはお店をやっているの?」
 おじさんは僕たちに聞いた。おじさんは年の頃なら六十歳あたりで、白髪交じりの髪を短くしていて、とても精悍な顔をしていた。洋菓子屋さんというよりも、寿司屋の板前さんみたいだった。
「はい。どうしてわかるんですか?」
「いや、なんとなくだけど、シフォンケーキを探してる人なんてあんまりいないからね。うちでも、シフォンケーキはそれほど人気がないんだよ」
「そうなんですか」
「ほら、イチゴやメロンなんかが載ったケーキのほうが見た目も派手だし好まれるね。せっかくだからってことで」
「確かにそうかもしれませんね」
 僕がそう言うとおじさんは笑った。
「そうだよ。シフォンケーキって、お店でおいしい紅茶を飲んでると食べたくなるんだよね。それに、だいたいシフォンケーキって何かとあわせてもおいしいようにできてるんだよ」
 おじさんのその言葉を聞くと、今度はノンちゃんが質問した。
「あわせてもおいしいように、ですか」
「そう。となりに、ちょっとシャーベットを置いてみるとか、果物を添えてみるとか」
「いいですね、そういうの」
「うん。だから、こういうお店ではなかなか人気が出ないんだけど、喫茶店なんかをやってる人は、こういう味を探してる人が多いんだよ」
 なんだか図星を指されたようで、ノンちゃんは普段よりちょっと頬が赤くなっているような気がする。
「あの、私たち半年前からカフェをやってるんですが、どうしてもシフォンケーキを出したいんです。いまは手作りのマフィンを出していて、それなりに人気はあるんですが、次は手作りのシフォンケーキを出したいって……」
 おじさんは楽しそうにノンちゃんを眺めている。
「あの、それで…」
「作り方を教えてくれっていうんだろ?」
「いえ、あの、そんな厚かましいことじゃなくて、ヒントというか」
「一緒だよ」
 と、おじさんは声に出して笑った。
「ヒント出す方がじゃまくさいよ。それにね、うち、シフォンケーキやめちゃうんだ」
「え、やめるんですか?」
 今度は僕が大きな声を出してしまった。
「そう。だって、売れないんだもん」
「だけど、こんなにおいしいのに」
「いくらおいしくても、売れない商品は作れないよ。それに、今はいないけど、娘と娘婿がこの店を継ぐって言うんで、ある程度、商品も整理しておかないとね」
 おじさんはそういって、ショーウインドウに入っていたシフォンケーキを全部出してきた。
「だから、これを持って帰って自分たちでいろいろやってみればいいよ。こんなタイミングで会ったのも何かの縁だろう。遅すぎかもしれないけど、オレからカフェのオープン祝いってことで」
「いや、でも」
 僕が遠慮していると、隣でノンちゃんが嬉しそうに笑って、
「ありがとうございます」
 とお礼を言う。
「がんばります。だけど、自信がありません。こんなにおいしいシフォンケーキ私につくれるでしょうか」
「大丈夫だよ。誰にだって作れる。気負わず頑張ればきっと大丈夫」
 おじさんはそう言って、残っていたシフォンケーキをすべて箱に入れて、僕たちに持たせてくれた。

 僕たちはそのまま家に帰らずに定休日の自分たちの店に行った。さっそく、シフォンケーキを焼いてみたい、とノンちゃんが言ったからだ。僕もその方がいいと思った。
 実際、僕にはノンちゃんがこれまでに作ったシフォンケーキと、洋菓子屋のおじさんが作ったシフォンケーキの味の違いがそれほどわからなかった。確かに、おじさんの作ったシフォンケーキの方がしっとりとはしていたが、ノンちゃんのシフォンケーキがしっとりとしていないわけではない。程度の差はあるけれどどちらもおいしいと僕は感じていた。
 しかし、ノンちゃんはおじさんのシフォンケーキの中に、なにか理想というか目標というか、自分の目指すべき味を見つけたようで、店に入るなり、黙々と材料を用意して、シフォンケーキを作り始めた。時々、おじさんのシフォンケーキを取り出すと、フォークで一口切り取って口に入れて、もぐもぐと食べた。まるで実験をしている科学者のようで、とてもアカデミックな感じがした。そして、うん、と声に出してうなずくと、また自分の作業を進めるのだった。
 僕はノンちゃんのシフォンケーキ作りを眺めながら、経理のオオタニさんに言われた損益分岐点について考えていた。月にどれだけ売り上げればいいのか。いくら以上維持費に使ってしまうと赤字になるのか。それを逐一教えてもらい、ようやくこの半年で、僕たちの店が損益分岐点を超えたことがわかった。といっても、ここまでの赤字分があるので、利益の出る状態をしばらく続けて初めて、本当の利益になるのだと言うことも聞いていた。
 ノンちゃんのおかげだと僕は思う。ノンちゃんがお茶を選んだり、マフィンを作ってくれたおかげでお客さんが来てくれたのだと心から思う。
 ノンちゃんのシフォンケーキ作りは夜遅くまで続いた。いつからシフォンケーキを出す、と決めていたわけではないので、急ぐ必要はなかったのだが、ノンちゃんはカフェを開く何時間も前から店に入って、シフォンケーキを焼いた。もちろん、店で出すマフィンも作っていたから、休む暇もなかったくらいだ。それでも、まったく苦にならないようで、ノンちゃんは本当に楽しそうにシフォンケーキを作り続けた。
「マフィンを母さんに教えてもらった時もそうだったけど、少しずつ理想に近付くんじゃないのよね」
 シフォンケーキを作り始めて二週間目くらいだっただろうか。ノンちゃんが急にそんなことを言った。
「少しずつ、良くなっている時って、急に歩みが止まっちゃうのよ。それよりも、何をやってもうまく行かないって言うときの方が、急に堰を切ったかのように求めていた味が手に入ったりするの。不思議よね」
 ノンちゃんの言葉に、僕はうなずいたが、本当のところ、僕にはそんな経験がなかったので、よくわからない。よくわからないけれど、その時のノンちゃんの表情がなんだか確信に満ちていたので、きっとそうに違いないと思ったのだった。

 シフォンケーキを焼き始めて一カ月くらい経った頃だろうか。その日、カフェの定休日にも関わらず、僕たちはいつもの定休日のように、店に来てシフォンケーキを焼いていた。そして、朝仕込んだシフォンケーキがオーブンで焼き上がった瞬間に、ノンちゃんはこう言ったのだった。
「お昼から、ミヤギさんとこへ行くから」
 ミヤギさんというのは、あの洋菓子屋のおじさんのことだ。あれから、一度だけノンちゃんはシフォンケーキの作り方について、電話をして確認したことがあった。確か、生地を寝かせるタイミングについてだったと思うが、それ以外は一度も連絡は入れていない。
 そして、このタイミングで、ミヤギさんに会いに行く、ということは、シフォンケーキの完成を意味していた。
「余熱をとって、少しだけ味見して、きっとそれで合格だから、ミヤギさんに見てもらいましょう」
「きっと合格なんだ」
「うん、わかるの。きっと私としては合格だと思う。あとは、ミヤギさんが合格って言ってくれるかどうかね」
 ノンちゃんは自信ありげに、でもやっぱりちょっと緊張した顔でそう言った。

 ミヤギさんはノンちゃんのシフォンケーキを一目見た瞬間ににっこりと笑った。
「よく頑張ったなあ。うん。よく頑張ったよ」
 ミヤギさんはそう言うと、素手でノンちゃんのシフォンケーキをちぎると、口に放り込んだ。そして、もぐもぐと口を動かし続けた。
 ノンちゃんと僕は緊張しながら待ったが、ミヤギさんは口の中のシフォンケーキが小さな欠片がきれいになくなるまで、黙って口を動かした。やがて、水を一杯飲むと、それを飲み干して言った。
「これはおいしい。オレのよりおいしいんじゃないか」
 ノンちゃんは本当に驚いた顔でミヤギさんを見た。
「いえ、そんなことはないと思いますけど」
「いやいや、少なくとも、オレよりもかっちりしてるよ。あと、慣れてきたら、もう少し角の取れた味になると思う」
「角張った味ってことですか」
 僕が聞くと、ミヤギさんは首を振った。
「いや、そう言うことじゃなくて、ただ単に遊びがないっていうのかな。もう少しで、自由度が増すっていう意味だね。だけど、それは作り続けないと絶対にわからないんだ。オレだってそこを教えてくれっていわれても、どう教えていいのかわからない。まずは、自分の思うレシピをしっかりと守って、次ぎに、気温や湿度、季節に合わせてそのレシピを融通する。そのさきなんだよ、角が取れてくるのは」
 僕にはよくわからない話だったが、ノンちゃんは素直に「わかりました」と答えて、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「頑張ったのは、あなただからね。というかさ、これからだからね、頑張らなきゃいけないのは」
 ミヤギさんはそう言って、自分のことのように喜んでくれた。

 翌日から、ノンちゃんの作ったシフォンケーキが僕たちのカフェで出されるようになった。誰もそう言わなかったくせに、本当はシフォンケーキを渇望していたのではないか、と思わせるほどノンちゃんのシフォンケーキは好評だった。
「こんなにおいしいシフォンケーキは食べたことがない」
「もっとパサパサしてるのかと思った」
「ノンちゃんの優しさが滲み出てる」
 みんながそれぞれにシフォンケーキをほめた。ノンちゃんはそう言われて、嬉しそうに笑った。
 しかし、僕たちがシフォンケーキの好評に胸をなでおろしていたのは、最初の一週間だった。ちょうど一週間経った頃、以前から出していたマフィンが一つも売れなくなってしまったのだ。
 シフォンケーキを出し始めた時は、お客さんの目が一時的にシフォンケーキに移っただけだろうと思っていたのだが、毎日、少しずつでも売れていたマフィンが、ついに一つも売れなかったというのはショックだった。
 その日、閉店時間が来るとノンちゃんは、オープンと書かれた札を裏返し、クローズと片仮名で書いたほうを店の外に出した。そして、レジのすぐ横で朝と同じ状態で並べられたマフィンをノンちゃんはぼんやり眺めていた。

 僕はそのうち、マフィンもシフォンケーキも同じように売れるようになる、と思っていた。だって、どっちも同じようにおいしいと僕には思えたから。
 しかし、一カ月たっても二カ月たっても、マフィンは売れなかった。そして、シフォンケーキは毎日売り切れた。
 僕はノンちゃんに、もう少しシフォンケーキを多めに作ったらどうだろう、と提案してみた。ノンちゃんは、そうだね、と答えるのだが、その通りにはしなかった。シフォンケーキも、そして、マフィンも増やしたり減らしたりせずに、作り続けた。そこに僕はノンちゃんの意志のようなものを感じて、なにも言えなかった。
 ノンちゃんは毎日、マフィンを九つ作った。そして、毎日、マフィンを九つ捨てた。最初のうちは、もったいないね、とか、残念だね、とか声に出していたノンちゃんだが、いまでは何も言わず、これが仕事なのだ、と言い聞かせるようにマフィンを捨てた。
 僕もなるべくノンちゃんがマフィンを捨てるところを見ないようにしていた。そして、そんな時、ノンちゃんが僕のことを少しだけ卑怯に思っているような気がした。ノンちゃんに直接聞いたわけじゃないから、本当にそう思っていたかどうかはわからない。もしかしたら、自分でそう思っていたからかもしれない。確かに、僕は自分で自分のことを卑怯に感じていた。

 その日は朝からノンちゃんが出かけていて、僕が一人でカフェにいた。なんでも、ノンちゃんの学生時代の友だちが長野で陶器を作っていて、カフェで使ってはどうだろう、と連絡をしてきたのだ。
「学生時代はTOEICを受けて、将来アメリカでコンサルの仕事をする、って言ってた女の子なんだけど、知らない間に田舎暮らし始めちゃって」
 ノンちゃんはそう言って笑っていたが、久しぶりに本人の顔と作品を見てきたいのだ、と僕に話してくれた。僕はもちろんいいよ、と答えてさっそく今日、朝早くから出かけていった。
「それじゃ、今日はシフォンケーキないの」
 そう言いながら、いつもの席に着いたのはタカシくんだ。タカシくんは近所の駄菓子屋さんの三代目で、カフェを開いたときからの常連さんだった。
「大丈夫、ちゃんと作っていってくれたから」
「そうなんだ。じゃ、僕はシフォンケーキとコーヒーちょうだい」
「はい、シフォンケーキとコーヒーですね」
 僕は一人でオーダーを通して、一人でサイフォンでコーヒーを落とし始めた。僕のコーヒーの淹れかたは父から教えてもらったものだ。まだ、僕が子どもだった頃、コーヒーが好きだった父が僕に淹れかたを仕込んだのだった。
 アルコールランプを時折調整して、タイミングを見計らって、上蓋をとって豆を攪拌させる。そして、ランプを外し、コーヒーの落ちてくるのを待つ。僕はその瞬間を見つめるのが大好きだった。その間は、いつもお店のこととか、お客さんのことも忘れてしまう。
「おーい。聞いてる? 今度のお祭りのこと」
 タケシくんが僕に向かって話していることに気付いた。
「なに?」
 僕が答えると、タケシくんは呆れたような顔をしている。
「ほんと、コーヒーを淹れてるときは何にも聞いてないんだから。今日はノンちゃんいないんだから、ちゃんと店にも気を配ってないとだめじゃん」
 そう言って、タケシくんは笑った。
 僕は淹れたばかりのコーヒーとノンちゃんが作っておいてくれたシフォンケーキをお盆にのせ、タケシくんの座っているテーブルに運んだ。
 タケシくんはテーブルに置かれたコーヒーカップとシフォンケーキを見て、嬉しそうな顔をした。
「このシフォンケーキ、ほんとにうまいんだよね」
 タケシくんはそう言って、おいしそうにシフォンケーキを口にほおばった。僕はどうしても聞きたくなって、ちょっといいかな、と声をかけてタケシくんの向かいに座った。
「あのさ。タケシくんもシフォンケーキばっかり注文するよね」
「ばっかりって、そんなことないよ。時々チキンカレーとか、サンドイッチも注文するし」
「うん、そうだね。でもそれは僕が作ってるんだよ。そうじゃなくって、ノンちゃんがつくってるものの中ではシフォンケーキしか頼まないだろ」
「そうか。そう言えばそうだよね。ノンちゃんが作ってるのはシフォンケーキとプリンだろ。おれ、プリンはあんまり好きじゃないんだよね」
 タケシくんは申し訳なさそうに言う。
「シフォンケーキとプリンと、実はもう一つあるんだよ。ノンちゃんが作ってるものって」
 僕がそういうと、タケシくんは考え始めた。
「シフォンケーキ、プリン、えっとなんだったけ」
 タケシくんはそう言って初めてメニューの書いてある黒板を眺めた。
「あ、そうか。マフィンか」
「そう。マフィンなんだよ」
「マフィンがどうかした?」
「どうもしない」
「どうもしないの?」
「うん。どうもしない。どうもしないんだけど、売れないんだ」
「え……」
 と、タケシくんはとても意外そうな顔をした。
「売れないのか。僕はとても売れてると思ってたよ」
「そうなの?」
「うん、売れてると思ってた」
「なぜ?」
 僕は素直に聞いてみた。なぜ、タケシくんがマフィンが売れていると思ったのか聞いてみたかったからだ。
「なぜだろう。え、え、わかんないよ。なぜだろう。なぜ、売れてるって思ってたんだろう。勝手な思い込みかな。全然、売れてないの」
「全然、売れてないんだ」
「だけど、オレは頼んでなかったかもしれないけど、隣のテーブルとかで誰かが頼んでいたはずだよ」
「うん、それは三ヵ月前までの話なんだ。三ヵ月前からマフィンは一つも売れていないんだ」
 僕が言うと、タケシくんはこれまでの三ヵ月間を一生懸命に思い出しているようだった。
「三ヵ月の間になにがあったんだろう」
 タケシくんがそう言って、僕が目の前のシフォンケーキを指さした。タケシくんはシフォンケーキを不思議そうに見つめた。
「シフォンケーキ?」
「そう、シフォンケーキ」
「シフォンケーキがどうしたのさ」
「シフォンケーキを作り始めてから、マフィンが売れなくなったんだ」
「そういうことか」
 と言ったきり、タケシくんも僕も黙り込んだ。だいぶ、長い間、二人は黙り込んで、目の前にあるシフォンケーキを眺めていた。すると、タケシくんが思い出したように、顔を上げる。
「今日はマフィンはあるの?」
 僕は立ち上がって、厨房からマフィンをひとつ持ってくる。そして、シフォンケーキの隣に並べる。
「確かにマフィンだ」
 タケシくんはそう言って、マフィンとシフォンケーキを交互に見てる。
「オレも最初はマフィンを頼んでいたよね」
「そうだね」
「うん、確かにそうだ。そして、このマフィンはすごくおいしいんだよ」
「うん、すごく評判はよかった」
「だけど、シフォンケーキがメニューに加わってからは、マフィンを頼まなくなった」
「うん。そうなんだ。それがタケシくんだけじゃなくて、お客さん、みんななんだよ」
「みんな…」
「そう、みんな」
「だから、まったくマフィンが売れなくなった」
「そう。ひとつも売れなくなった」
「なぜだろう」
 タケシくんが本当に不思議そうな顔をして僕に聞く。
「だから、こっちが聞いてるんじゃないか。お客さん代表としてのタケシくんに」
「そう言われても困るなあ。いままでそんなこと考えもせずに、ごく自然にシフォンケーキを頼んでたよ」
 タケシくんは、僕が真剣に聞くものだから、彼なりに真剣に考えてくれた。でも、なにも思い浮かばないようだった。
「というよりも、売れないんだったら、マフィンを作らなければいいんじゃないかと思うんだけど、どうだろう」
 タケシくんは考えあぐねた結果、そう言った。僕も深くうなずいた。
「そうなんだ。だけど、ノンちゃんはマフィンを作り続けるんだ」
「なぜ?」
「それは、マフィンがおいしいから」
「マフィンがおいしいから……」
「そう。タケシくんもさっき言ってたじゃない。あのマフィンはおいしかったって」
「うん、言った。ほんとにおいしいんだもん、あのマフィン」
「だろ。だから、ノンちゃんとしてはいくらシフォンケーキに人気があって、マフィンが売れなくなっても作るのをやめるわけにはいかないんだ」
「わかる」
 と、タケシくんは言った。
「うちの駄菓子屋でもそうなんだ。昔から人気のある酢昆布を置いてはいるんだけど、実はそれほど売れないんだよ。だけど、ごくたまにどうしても酢昆布が欲しいっていうお客さんがいてさ。そのために、置いてあるみたいなもんなんだ」
「でも、酢昆布はごくたまにでも、買ってくれるお客さんがいるんだろ。ノンちゃんのマフィンは、ひとつも売れないんだよ」
「そうか。それじゃちょっと状況が違うなあ」
 そう言ったっきり、また二人は黙り込んだ。今日は黙り込むのにふさわしい日なのか、他にお客さんも来ない。
 その後、僕たちはたわいない話をして過ごした。日が傾いたカフェの窓からは西日が差し込んでいる。強いオレンジの日差しで、店の中は濃い陰影がついている。僕はこの時間の自分の店が大好きだった。以前、そう話をしたとき、ノンちゃんもそうなのだと話してくれた。それから、毎日、夕方の西日が差してくる時間になると、僕たちは仕事の合間に、この風景を愛おしく眺めるようになった。
 今日も強い日差しが、床の上に作る影を僕は楽しんでいた。すると、影が大きく動いて、店のドアが開いた。ノンちゃんだった。
「ただいま」
「お帰り」
 僕が言うと、タケシくんも「お帰り」とノンちゃんに声をかけた。
「コーヒーカップとお皿の見本をもらってきたわ」
 そう言って、ノンちゃんは僕たちが座っていたテーブルの上に、友だちが作ったというコーヒーカップとお皿を置いた。
「どうしたの?」
 ノンちゃんが僕に聞く。
「何が?」
 と、僕が答える。答えながら、僕は失敗したと思っていた。なにしろ、目の前のテーブルには食べかけのシフォンケーキと、マフィンが一緒に置かれていたのだから。僕は下手に言い訳をしてもばれるだろうな、と思い、正直に話をした。
 すると、ノンちゃんは嬉しそうに笑いながら言った。
「心配してくれてありがとう」
「心配してるわけじゃないんだけどね」
 と、タケシくんは言う。
「ただ、自分でも不思議だったんだ。確かに、シフォンケーキがメニューに加わってからはマフィンを頼まなくなったんだけど、マフィンを頼まない理由がないんだよ」
「シフォンケーキの方が食べ応えがあるからかしら」
 ノンちゃんが素直に聞く。
「いや、オレも言われて初めて考えたんだけど、そんなふうにどっちがいいかっていう比べ方はしてないんだよね。ただ、シフォンケーキって言っちゃうって感じだな」
「ただ言っちゃうって感じかあ。つかみ所がないわね」
「そうだなあ」
 と、 僕も言う。そして、僕のアイデアを言葉にしてみる。
「シフォンケーキ作るの、しばらく止めてみるっていうのはどうだろう」
 それを聞いて、ノンちゃんは笑顔になり、タケシくんは不思議そうな顔をした。
「えっ! だって、売れてるんだろ、シフォンケーキ」
「うん、おかげさまで、人気があっていつも売り切れてる」
「だったら、どうして止めちゃうんだよ」
「だから、マフィンのためだよ」
 タケシくんはますますわからなくなったようだ。
「だったら、いままで通りシフォンケーキを作って、マフィンの宣伝に力を入れるとか、そういう方法はどうなんだろう」
 タケシくんの言葉を聞いて、ノンちゃんがそれに答える。
「結局は一緒だと思うの。ただ、マフィンが売れなくなったのが悔しいってことじゃないのよ。なんか自分で作っておいてヘンな感じなんだけど、もっとマフィンを大切にして、マフィンがちゃんと定着してから、シフォンケーキを作れば良かったって。なんとなくそう思うの」
「まるで、自分の子どものことを話してるみたいだね」
 と、タケシくんは笑ったが、本当にノンちゃんは自分の子どものことのように思っているのだった。
「ヘンな感じがするかもしれないけど、そうなのよ。だから、いったんシフォンケーキを作るのを止めて甘いものはマフィンだけにする。そういう意味よね」
「うん。僕が言っているのはそういう意味だよ」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは、ありがとう、と答えた。
「でもなあ、お客さんは圧倒的にシフォンケーキを支持しているわけでしょ。うまくいくのかなあ」
 タケシくんは、そう言ってお客さん代表として難色を示していたが、僕とノンちゃんはこれ以外の手はないと確信していた。カフェのオープンと同時に出していたマフィン。その人気を回復するためには、一度、いま一番人気のシフォンケーキをやめてマフィンにメニューを絞る。そうすることで、マフィンのおいしさを再認識してもらう。
「そうすれば、きっと、もう一度シフォンケーキを出したときには、マフィンもちゃんと売れ続けるような気がするんだよ」
 僕はタケシくんに納得してもらうことが、お客さんに納得してもらうことのように感じて、熱を込めて話した。
 
 翌日、僕たちはシフォンケーキをメニューから外した。飲み物とフードメニューはそのままにして、スイーツは以前からあったマフィンとプリンだけにした。
 そうすることで、マフィンが売れるかどうかはわからないけれど、一度、シフォンケーキを止めてみようと僕とノンちゃんは決めたのだった。いつもシフォンケーキを注文してくれていたお客さんからは、なぜシフォンケーキがないのか、という声が寄せられた。なかには、シフォンケーキが食べたく来たのに、と帰ってしまうお客さんもいた。僕とノンちゃんはそんな様子を目の当たりにすると、やっぱりショックだったが、できるだけ平気な顔をするようにしていた。
 シフォンケーキをやめた初日、マフィンは売れなかった。その次の日もマフィンは売れなかった。三日たち、一週間たっても、マフィンは売れなかった。以前、マフィンを注文していて、シフォンケーキに移行していたお客さんたちは、シフォンケーキがなくなったからといって、マフィンを注文しなかった。僕たちも代わりにマフィンはいかがですか、とは言わなかった。
 結局、半年経っても、マフィンは一つも売れなかった。だからといって、カフェが流行っていないわけではなかった。毎日、お客さんは入っていたし、ランチタイムには何人かが入り口で待っていたりした。ドリンクメニューもフードメニューも、それなりに人気があった。そう、売れないのはマフィンだけ。どうしてなのか、と考えていたのは最初の一月だけで、後は売れない状況を受け入れ、維持でもなく惰性でもなく、ノンちゃんは毎日九つのマフィンを作り、毎日九つのマフィンを捨てた。
 夜の八時頃、店を閉めて掃除をしていたとき、ノンちゃんがため息をついて、客用の椅子に座った。
「どうしたの? 疲れた?」
 僕が声をかけると、ノンちゃんが首を振った。
「疲れてなんかないわ。ただ、やっぱりどうしても不思議なの」
 僕もノンちゃんの向かい側に腰をおろした。
「不思議って、何が?」
 僕が聞くと、ノンちゃんが笑う。
「だって、最初はマフィンが売れていて、シフォンケーキを出したら、シフォンケーキが売れ出して、マフィンが売れなくなった。で、シフォンケーキを止めたらマフィンが売れると思うじゃない。ところがどっこい、よね」
「そう、ところだどっこい、なんだよなあ」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは思い立ったように席を離れ、厨房に行った。そして、手に売れ残ったマフィンを持って帰ってきた。
「どう? 食べてみる?」
 僕は一瞬迷ったが、久しぶりにマフィンを食べてみることにした。僕たちはシフォンケーキを止めてから、売れ残ったマフィンを口にしなかった。作るときには味見をするが、売れ残ったものを食べることはなかった。特に自分たちにそれを禁じていたわけではないけれど、なんとなく、それが商品として作られたマフィンに対する礼儀のような気がして、食べようとはしなかったのだと思う。
 目の間に置かれたマフィンを僕たちはそれぞれに手に取った。そして、僕は少し恐る恐る。ノンちゃんは意外になんの躊躇いもなく、マフィンを口に入れた。
 僕たちは互いに、じっくりとマフィンを味わった。何の飲み物もなく、ただマフィンだけをじっくり味わって、またしばらく口を閉ざした。
 ふいに、ドアが開いて、閉店したことを知らないお客さんがやってきた。
「すいません。もう今日は閉店なんです」
 ノンちゃんがそう言うと、お客さんは少し恥ずかしそうに帰っていった。
「またよろしくお願いします」
 そう言って、ノンちゃんがドアを閉める。そして、僕のほうを振り返ると、とても明るい笑顔を向ける。
「ねえ、いまのお客さんにマフィンを食べてもらったら、なんて言うと思う」
 僕は迷わず答えた。
「おいしいって言うよ」
 すると、ノンちゃんはとても嬉しそうな顔で言う。
「私もそう思う。おいしいって言うと思う」
「だって、おいしいもん」
「だって、おいしいよね」
 僕たち二人はそれから一時間ほど、閉店した後のカフェの薄暗いテーブルに座って、このマフィンがどれだけおいしいのか、と言うことについて話し続けた。なぜ、売れないのか、という話にはならなかった。避けているわけでもなく、ただ、なぜおいしいのか、どうおいしいのか、ということだけを二人は話し続けた。
「ねえ、このマフィン、明日は売れる気がするんだけど、どうだろう」
 僕が言った。
 ノンちゃんがうなずいた。