大阪関空行きANA832便である。座席は26F、搭乗口は6番。日付は1月の2日。落語「代書」に出てくる松本留五郎風にいうなら「いちげつのふつか」だ。新年明けて二日目に羽田から関空へ向かう全日空の搭乗券の半券がいま、僕の手元にある。
そこには、当然のように僕の名前がカタカナ表記で印字されている。が、しかし、僕はそんな飛行機に乗った覚えもなければ、搭乗券を購入した覚えもないのだ。
僕の名前は驚くほど珍しい名前ではない。かといって、初対面の人に「ああ、同じ名前の人知ってます」と言われるほどの名前でもない。僕自身、同じ名字の人に面と向かってあったことはない。そんな名前がカタカナ表記で印字されているのだから、この搭乗券が僕が使用したものだと誰かが思っても仕方がないことだ。
だけど、不思議なのは、この同姓同名のチケットが僕が住んでいる町の僕がよく行く小さなクリニックの小さな看板の上にひょいと置かれていて、しかも、そのタテヨコが10センチにも満たない地味な青い紙片をうちの息子がたまたま見つけたということだ。
だって、考えれば考えるほど、なにかおかしい。自分が住んでいる生活圏に同姓同名の人がいるっていことも、それなりに珍しい偶然かもしれないが、それ以上に、その名前が書かれた小さな紙切れを同姓同名である僕の息子がたまたま見つけて、自宅に持ち帰り「父ちゃん、飛行機に乗った?」と何やら意味深な笑顔で聞いてくるなんて、やっぱりおかしい。探偵小説やサスペンス映画の冒頭で、同じことをやったら、ラッシュの段階でプロデューサーから「偶然にもほどがある」とか「やりすぎ」とか「ご都合主義だ」とか言われてしまうはずだ。
息子がさも嬉しそうな顔をして「父ちゃんが大阪に行った証拠や」と言いつつ件の搭乗券の半券を見せ、家族みんなで「ほんまは一人で大阪行ってたんちゃうの?」とか「浮気や浮気や」とか「近くに同姓同名の人がいるのか、気持ちわる!」などと言い合うような喧噪が終わると、残るのはやはり、なぜ? という疑問。
なぜ、この半券は僕たち家族がよく利用するクリニックの看板の上に置かれていたのか。なぜ、その半券をうちの息子が見つけたのか。そこになんの意味もない、と言ってしまうと人生は味気ない。きっと何か意味があるのだろう。僕の将来に関わることなのか、それとも過去に何か関わりがあったことなのか、そのあたりはわからないが、きっと何か意味があるのだろう。
そんなことを考えていて、ふと思い至ったのは、ドッペルゲンガー。自分とそっくりの人物と出会ってしまうと死んでしまう、というあれだ。間接キスならぬ、間接ドッペルゲンガーではないのか、と思ったりもするのだが、間接キスならキスしたことにはならぬ。そう考えれば、息子経由で間一髪、危機を脱したと言えないこともない。
ということで、僕と同じ名前が書かれた小さな搭乗券の半券がいまどこにあるのかというと……。なぜだか、まだ、お守りのように僕の手帳に挟まれているのです。